第027幕 ――安全圏の崩壊と泥臭い優越感――
炎天の熱気が、分厚いコンクリートの壁の向こうで東京のアスファルトを白く焼き焦がしている。 久松町。 保管室の空間は、二秒おきに微弱なモーター音を立てる空調によって、二十四度の無臭の風が絶え間なく循環しているはずだった。 まるで、見えない巨大なーーいや、そんな比喩はどうでもいい。
しかし今、吹き出し口から降り注ぐのは、三十七度前後のねっとりとしたゼリー状の大気だ。 鼻腔の粘膜に、酸化しきった鉄錆の鋭い粒子と、腐りかけた肉の重く甘ったるい匂いが突き刺さる。 黒橡の靄が間欠泉のように噴き出し、空間の酸素を急激に食い潰していく。
私は、左手の人差し指と親指で、スーツの太ももの生地を執拗に擦り続けていた。
シュッ、シュッ。
上質なウールの繊維が乾燥した指の腹の水分を奪い、微細な摩擦を生む。 私はなぜ、酸素が枯渇していくこの異常な地下室に留まり、眼前の光景を見届けようとしているのか。 歴史に埋もれた真実を検証し、作品の出処を正確に評価するための、専門家としての冷徹な責務。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
シュッ、シュッ。
ウールを擦る微小な摩擦音と、鼻腔を塞ぐ腐肉の悪臭がゼリー状の不快な塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。 専門家の責務など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。
本当は、あの足利の蔵の底で私を圧倒し、脅かし続けた狂気から逃避し、この無菌室の絶対的な支配者である新島が、理不尽な過去の汚泥に引きずり込まれ、無様に顔を引き攣らせる様を安全圏から見下ろしたいだけなのだ。 他者の足元が崩れ落ちる瞬間を特等席で消費し、優位に立つことでしか、自らの奥底で暴走を続ける劣等感と怯えを塗り潰すことができないからだ。
彼の右手の指先。 純白のシルクの繊維が、自ら熱を発するかのように急速に黒ずみ、ぶくぶくと泡を立てて錆色の重い泥へと崩れ落ちていく。
「が、あ、あああっ!」
新島の声帯から、空気が漏れるような摩擦音が迸った。 泥と化した手袋の残骸が、ボタボタとコンクリートの床へ零れ落ちる。
ドチャリ、ドチャリ。
粘り気のある重い飛沫が飛び散る。 新島は、泥にまみれた右手を左手で乱暴に押さえつけながら、足利から届いた古い習作やクロッキー帳の束を素手で掴み取った。
ギリッ。
紙の繊維が軋み、引き千切られる乾いた音が響く。 古い紙とカビの混じった紙魚の匂いが、鉄錆の幻臭と混ざり合って鼻腔を突いた。
「この顔……間違いない。高知大学の、あの当時の……」
彼の顎の筋肉が歪な角度で硬直したまま持ち上がり、奥歯が激しく軋む音が、鉄錆の匂いと混ざり合って私の鼓膜に直接まとわりついてきた。 その音声波形が鼓膜を叩いた瞬間、保管室の床がすり鉢状に傾いたかのような強烈なめまいが発生した。 五十年前の肖像画の女の輪郭と、目の前で顔面を引き攣らせる新島の骨格が、網膜の裏側で不規則に明滅して重なり合う。
「……柴崎実咲」
新島が、喉の奥で空気の塊を押し潰すように、その名を絞り出した。
「柴崎実咲……私の、母だ」
シュッ、シュッ、シュッ。
私の左手がスーツの生地を擦る速度が勝手に上がる。 新島が両手で古い紙片を握り潰す。 紙の断面が彼の指に深く食い込み、白く血流をせき止める。
「あの男が……母を……! これが、これだというのか!」
新島の声帯の震えが、三十七度の生温かい微熱の塊となって保管室の大気を暴力的に揺らす。 鉄錆の粒子が気管支を完全に塞ぎ、私の横隔膜が不規則に硬直した。 息が吸えない。 舌の根元がカラカラに乾き、唾液腺から分泌された泥のような粘液が喉の奥を塞ぐ。
私は右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。 冷たく滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛けようとする。
チッ、と。
微かな音を立てて、私はこのガラス越しに彼をねじ伏せようと試みた。 だが、急速に血流を失った私の指先は硬直して曲がらず、爪はガラスの表面を力なく滑るだけだった。
ツルッ。
摩擦音すら鳴らない。 金属の冷気が、感覚を失いつつある皮膚にへばりつく。 喉の奥にこびりついた鉄錆の幻臭が、粘り気を増して気道を完全に塞いでいく。 私は、革張りの椅子に縫い付けられたまま、ただ冷たい空調の風が私の体表面から残された熱を均等に奪い去っていくのを、浅い呼吸とともに受け入れ続けていた。
コンクリートの床に跳ねる泥の音と、新島の荒い呼吸音。私は、気管支を塞ぐ腐肉の匂いを深く吸い込みながら、左手でスーツの生地を擦る微細な摩擦音だけを、この息苦しい暗熱の底でただひたすらに鳴らし続けていた。




