第026幕 ――無菌室の崩壊と泥臭い優越感――
梅雨寒の雨が、分厚いコンクリートの壁の向こうで東京の街を灰色の帳で覆い隠している。 まるで、都市全体が灰色の羊水に沈んだ巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。
ここは久松町。「新島アート」の地下深くに位置する保管室。 天井の吹き出し口から二秒おきに絶え間なく降り注ぐ二十四度の無臭の風が、一気圧・酸素濃度二十一パーセントの極度に乾燥した大気を均等に循環させている。 私は、ステンレス製のテーブルの上に積まれた、足利から届いたばかりの古い習作やクロッキー帳の束から立ち上る微かな紙の匂いを吸い込みながら、左手の人差し指で分厚い資料の端をトントンと一定のリズムで叩いていた。
私はなぜ、わざわざこの地下室で、新島と共にこれらの古い習作を改めているのか。 歴史に埋もれた真実を検証し、作品の出処を正確に評価するための、専門家としての冷徹な責務。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
トントン。
紙の鋭い断面が指の腹の水分を奪う微細な摩擦音と、古いインクの酸の匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
専門家の責務など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの足利の蔵の底で私を圧倒し、脅かし続けた狂気と恐怖から逃避し、この無菌室の絶対的な支配者である新島が、私と同じように泥に塗れて絶望する様を安全圏から見下ろしたいだけなのだ。 他者の足元が理不尽に崩れ落ちる瞬間を特等席で消費し、優位に立つことでしか、私の奥底で暴走を続ける劣等感と怯えを誤魔化すことができないからだ。
隣では、新島誠一郎が白練のシルクの手袋を嵌めた両手で、習作の束を一枚ずつ几帳面な動作でめくっている。
シュッ、シュッ。
絹の繊維が古い紙の表面を擦る音。 私はその規則的な反復音に合わせるように、右手の親指の爪で、スーツのポケットの底にある銀鼠の鑑定用ルーペの亀裂を引っ掻き始めた。
チッ、チッ。
爪とガラスが擦れる音。 この静謐なリズムが、足利の蔵の底で吸い込んだ重い空気の記憶を、網膜の裏側に薄く押し留めている。
シュッ。
新島が次の一枚をめくろうとした、その時だった。 彼の腕の動きが、空中で唐突に静止した。 同時に、私の首筋に吹き付けていた二十四度の空調風が、突如として三十七度前後のねっとりとした微熱へと変質し、皮膚にべったりと張り付いてきた。 鼻腔の粘膜に、酸化しきった鉄錆の鋭い粒子と、腐りかけた肉の重く甘ったるい匂いが突き刺さる。
新島の右手の指先。 白練の手袋の繊維が、自ら熱を発するかのように急速に黒ずみ、ぶくぶくと泡を立てて錆色の重い泥へと崩れ落ちていく。
「……が、あ、あああっ!」
新島の声帯から、空気が漏れるような摩擦音が迸った。 彼の右腕の静脈が葡萄色に膨れ上がり、皮膚の下を無数の極小のガラス片が逆流していくような、チリチリとした微細な音が大気を震わせる。 彼の顎の筋肉が歪な角度で硬直したまま持ち上がり、奥歯がギリギリと軋む。
泥と化した手袋の残骸が、ボタボタとコンクリートの床へ零れ落ちる。
ドチャリ、ドチャリ。
粘り気のある重い飛沫が飛び散り、鉄錆の匂いが濃度を増して保管室の酸素を急激に食い潰していく。 私は無言のまま、右手の親指でルーペの亀裂を強く引っ掻いた。
チッ、チッ。
ガラスを削る乾いた摩擦音。
新島は、泥にまみれた右手を左手で乱暴に押さえつけながら、顔を上げた。 顔面の筋肉が不自然に引き攣り、眼窩の奥の毛細血管が赤く膨張している。
「答えろ……!」
ひび割れた声帯の震えが、生温かい微熱の塊となって私の鼓膜に直接まとわりつく。 「この習作に描かれている……この肖像画のモデルは、いったい誰だ!」
鉄錆の粒子が気管支を塞ぎ、私の横隔膜が不規則に硬直する。 息が吸えない。 私は右手の爪でルーペの亀裂を引っ掻く速度を上げた。
チッ、チッ、チッ。
火照った掌の肉に冷たい金属の縁が深く食い込み、血流をせき止める鈍い圧迫感が生じる。
「柴崎……実咲」 新島が、喉の奥で空気の塊を押し潰すように、その名を絞り出した。 「柴崎実咲……私の、母だ」
チッ、チッ、チッ、チッ。
右手の爪の往復運動が止まらない。 爪の裏側の肉が微小な摩擦熱で痛み始め、舌の根元に微かなインクの酸の匂いと鉄の味が滲み出してくる。 コンクリートの床に跳ねる泥の音と、新島の浅い呼吸音が重なり合う。 私は、気道を塞ぐ腐肉の匂いを深く吸い込みながら、ただひたすらに、冷たい金属とガラスの摩擦音だけを、この息苦しい暗熱の底で一定の周期で鳴らし続けていた。




