第025幕 ――無菌の絶頂と泥臭い逃避――
白南風の乾いた気配が、分厚いガラス窓の向こうで東京の街を音もなく撫でていく。 久松町。 私立美術館「新島アート」のメイン展示室。 足元の磨き抜かれた大理石から、硬質な冷気が革靴の底を伝って這い上がってくる。 空間は、二秒おきに微弱な電子音を立てる空調によって、二十四度の無臭の風が絶え間なく循環していた。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された大気。
まるで、見えない巨大な氷の肺胞が――いや、そんな比喩はどうでもいい。
足利の薄暗い蔵の底で、私の肺細胞にこびりついたあの鉄錆と腐肉の重い気体粒子は、この極度に乾燥した冷気の中では完全に揮発し尽くしているはずだった。
フロアの中央に特設された胡粉色の壁面。 天井に配置された無数のLED照明が、一切の影を許さず、その平滑な表面に白群の光の束を均等に撃ち下ろしている。 私は、誰一人いない広大なフロアの中心に立ち、革靴の踵で大理石を一度だけ短く叩いた。
カツ、と。
硬質な反響音が壁面にぶつかり、減衰しながら消えていく。
その音波の消失と同時に、鼻腔から吸い込んだ二十四度の冷気が、一切の摩擦を生むことなく気管を通り抜け、肺胞の隅々にまで滑らかに行き渡った。
私の左手の親指が、スーツの袖口のボタンを執拗に弾き始めた。
チッ、チッ。
硬い樹脂と爪が擦れる微小な音。
チッ、チッ、チッ。
私はなぜ、この完璧に調整された無菌室の広大なフロアの中心で、ただ一人立ち尽くしているのか。 真の芸術をあるべき場所へと安置し、歴史の正当な評価を下すという、文化の保護者としての高潔な使命感。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。 この静寂こそが、芸術が到達した至高の領域なのだと。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
チッ、チッ。
樹脂のボタンを弾く硬質な音と、空調の風に混じる微かなインクの酸の匂いがゼリー状の不快な塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
文化の保護など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 本当は、あの足利の蔵の底で私を圧倒し、脅かし続けた狂気と泥の重力から逃避し、この徹底的に管理された絶対的な安全圏から、あの男の執念を無機質な数字と大理石で縛り上げて完全に見下ろしたいだけなのだ。 そうして他者の情念を圧倒的な資本の暴力でねじ伏せなければ、私の奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と恐怖が、私自身を喰い破ってしまうからだ。 己の卑小な怯えを、この白群の光で無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。
照明の角度、無機質な赤外線センサーの不可視の光線、計算し尽くされた導線の幾何学模様。 それらが私の網膜の裏側で、桁の多い白と黒の数字の羅列へと変換され、一定のリズムでチカチカと明滅を繰り返している。
胡粉色の壁面の中心には、ぽっかりと空いた漆黒の額縁用スペースが存在している。 そこへ、あの泥のように重い顔料の塊がはめ込まれる。 私は舌の根を上顎に押し当てて、じわりと分泌された唾液を飲み込んだ。 口の中に、インクの微かな酸の匂いが滲み出す。 この分厚いガラスと大理石の箱の中に配置された瞬間、いかなる泥や錆色の飛沫も、計算式に組み込まれた無機質な数字の束へと自動的に変換される。
チッ、チッ、チッ。
袖口のボタンを弾く速度が勝手に上がる。 首筋を撫でる空調の微風が、私の体表面の熱を均等に奪い去っていく。
私は右手を、スーツのポケットの底深くへと沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、極端に冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の掌の奥深くでは、かつて焼け焦げた神経の末端が、心拍に合わせてチリ、チリと微かな熱を放っている。 私は、その火傷のひきつりに、冷え切ったルーペの金属を深く押し当てた。 親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。
キュッ、キュッ。
ポケットの奥で鳴る、ガラスと爪の摩擦音。
キュッ、キュッ、キュッ。
火傷の鈍痛と、金属の冷気。 局所的な温度差が指先の感覚を麻痺させていき、網膜の裏で明滅する数字の増殖が視神経をさらにチカチカと刺激し続ける。 袖口のボタンを弾く左手の音と、ルーペの亀裂を削る右手の音が、無菌状態の静謐な大気の中で、完全に独立した無意味なリズムを刻み続ける。 窓の外の白南風の光が大理石に乱反射し、私の瞳孔に鋭く突き刺さる。 私は、冷たい金属の質量を火照った掌の肉に深く食い込ませながら、ただ漆黒のスペースを前に、顔の筋肉を歪な角度で硬く持ち上げたまま、ピタリと静止していた。




