第024幕 ――偽りの連帯と泥臭い逃避――
短夜の闇が、分厚いガラス窓の向こうで東京の街を音もなく沈めている。
高層ビルの最上階に位置する会員制のバー。 吹き出し口から一定の周期で降り注ぐ二十四度の乾燥した微風が、空間の酸素濃度を均等に循環させている。 まるで、見えない巨大な獣が呼吸を——いや、そんな比喩はどうでもいい。
足利の蔵の底で肺の内壁に張り付いた、あの鉄錆と腐肉の重い匂い粒子は、この空間には一粒も混入していない。 窓の外には漆黒の夜景が広がり、遠くのビル群の航空障害灯が、無音のまま一定のリズムで赤い明滅を繰り返していた。
磨き上げられたマホガニーのカウンターに、二つのバカラグラスが置かれている。 私の隣には、新島誠一郎が腰を下ろしていた。
「この数年間……何かをそのままの形で残すという作業が、これほど骨の折れるものになるとは」
新島の声帯の震えが、静まり返った大気を微かに揺らした。
「ええ。氷の底で呼吸を続けるような日々でした」
私の喉から押し出された音声波形が、新島の声と重なる。 冷たい数字の羅列と、乾いた風だけが支配していた数年間。 互いの口から吐き出される呼気の温度が、マホガニーのカウンターの上で微かな熱溜まりを作っていく。
新島はゆっくりと姿勢を正し、自らの両手を見下ろした。 彼は右手の指先で、左手に嵌められていた白練のシルクの手袋の端を摘んだ。
シュッ。
絹の繊維が皮膚から滑り落ちる、極めて微小な摩擦音。
シュッ、シュッ。
彼は両手の手袋を静かに引き抜き、カウンターの片隅に置いた。 和紙の照明が、むき出しになった彼の素手の関節に落ちる。
私はなぜ、この夜の静寂の中で、かつて私を追放した男と並んでグラスを傾けているのか。
過去の敵対を乗り越えた、同志としての静かなる連帯。 互いの傷を認め合い、生存者として未来を見据えるための、成熟した大人の儀式。 ……そうだ。社会的に成功した人間が演じるべき、最も美しく合理的な建前だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
カラン。
新島が素手でバカラグラスを持ち上げた際、氷がクリスタルガラスの内壁にぶつかる甲高い音と、アルコールの鋭い揮発臭がゼリー状の塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
同志的連帯など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。
私はただ、あの足利の蔵の底で私を圧倒し、脅かし続けていた狂気から逃避し、盤石な防音ガラスに囲まれたこの安全圏で、同じ狂気を知る男と傷を舐め合いたいだけなのだ。 そうして互いの生き残りを肯定し合わなければ、私の奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と恐怖が、私自身を喰い破ってしまうからだ。 安全圏から過去を美化し、互いを消費することでしか、己の卑小な怯えを誤魔化せない。
チリン、と硬いクリスタルが触れ合う澄んだ音が、微風の流れる空間に響いた。
グラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込む。
舌の粘膜で強いアルコールの刺激が弾け、食道から胃壁へ向かって熱い塊が滑り落ちていく。 その熱が血流に乗って四肢の末端へ広がり、私の心臓の拍動を不規則に引き上げた。
私は左手でグラスの底を持ったまま、空いた右手をスーツのポケットの奥深くへと沈み込ませた。 布地の底で、指先が極端に冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。
私は、親指の爪をレンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛けた。
チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。
チッ、チッ。
左手の指先は、グラスの表面に結露した微細な水滴を執拗になぞり続けていた。
キュッ、キュッ。
冷たい水滴と皮膚の摩擦。 右手の爪がガラスを削る音と、左手がグラスを拭う音。
二つの無意味な反復動作が、胃の腑から込み上げるアルコールの熱の中で、完全に独立したリズムを刻み続ける。
隣で新島がグラスを傾けるたび、氷がカランと鳴る。 あの足利の蔵でキャンバスに塗り込められていた顔料の色彩。 そのモデルの正体に関する一切の音声波形は、この空間のどこにも存在しない。
ただ、窓の外で明滅する赤い航空障害灯の光と、ポケットの中で私がルーペを引っ掻く微細な振動だけが、沈黙の底で不規則に共鳴し合っている。
チッ、チッ、チッ。
爪が亀裂を削る速度が勝手に上がる。 空調の乾燥した風が私の頬の表面から熱を均等に奪っていく中、私はアルコールの芳醇な香りを肺の奥深くまで吸い込みながら、ひたすらに指先の無意味な反復動作を続けていた。




