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第023幕 ――異常な冷気と泥臭い道連れ――

 夏めく風が、東京のアスファルトの照り返しから遠く離れた足利の街を柔らかく撫でている。 しかし、分厚い漆喰壁に守られた蔵の重い扉を押し開けた瞬間、その乾いた大気の流れは背後で完全に遮断された。

 まるで、巨大な生肉の襞の間に――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 内部には、三十七度前後のねっとりとした生温かい微熱と、肺胞(はいほう)の内壁を直接泥で撫で回すような鉄錆の鋭い悪臭(あくしゅう)が重く淀んでいる。 息を吸い込むたび、舌の根元に腐りかけた肉の甘ったるい粒子がべったりと張り付き、気管支(きかんし)が不規則に収縮(しゅうしゅく)した。

 薄暗がりの中、キャンバスに向かう老人の背中は、背後の空間の異常な粘度など一切感知していないかのように、ひたすらに不規則な速度で筆を叩きつけ続けていた。 真朱(まそほ)の顔料が布地に擦り付けられるたび、五十年間沈黙していた女の輪郭が、微細な油の光沢を伴って浮かび上がってくる。

 ドチャリ、ドチャリ。

 私はなぜ、東京からわざわざこの若い助手を、この暗熱の底へと同行させたのか。 現地の環境基準を測定し、作品を安全に管理するという、プロフェッショナルとしての誠実な使命。 ……そうだ、社会的な大義名分としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を脳内で組み上げようとした瞬間。

「あ、うっ……!」

 突如、背後の土間からくぐもった空気が漏れ、硬い靴底が泥を擦る鈍い音が響いた。

 その不快なノイズと、鼻腔(びくう)を突く強烈な腐肉の匂い(におい)がゼリー状の塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 誠実な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、この蔵の底で私を圧倒し続ける狂気から逃避し、自分だけが怯えたという事実を消去するために、この無知な娘を道連れにしてやりたいだけなのだ。 彼女が恐怖(きょうふ)に顔を引き攣らせる(ひきつらせる)様を安全圏から見下ろすことでしか、自らの奥底にこびりついた得体の知れない劣等感を塗り潰せないからだ。

 振り返ると、東京から同行させていた助手である新島実咲が、両膝を泥まみれの土間に突き立ててうずくまっていた。 彼女の細い髪を束ねている古い銀の髪留め。 その金属の周囲数センチの空間だけが、蔵全体を支配する三十七度の生温かい大気から完全に断絶し、大気中の水分を瞬時に白く結晶化させる異常な冷気の領域へと変異している。

 バチッ、バチッ。

 微小な霜の粒子が髪留めの周囲で弾ける音が鳴る。

 実咲の顔面から急速に(ねつ)が奪われ、皮膚の表面が青鈍(あおにび)の土気色へと硬直(こうちょく)していく。 彼女は両手で自らの頭蓋(ずがい)を激しく挟み込み、浅く不規則な痙攣(けいれん)を繰り返した。

 私は舌の裏側に溜まった過剰な唾液(だえき)を飲み込みながら、スーツの右ポケットの奥底へと手を沈めた。 そこに横たわる銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペの冷たい金属縁。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。

 チッ、チッ。

 ガラスと爪が擦れる乾いた音。

 チッ、チッ、チッ。

 私は彼女へ手を差し伸べることなく、ただ右手をポケットから引きずり出し、冷え切った銀鼠(ぎんねず)の金属を右の眼窩(がんか)に固く押し当てた。 冷たいガラスの縁が火照った顔面の肉に深く食い込み、眼球(がんきゅう)の周囲の熱をじわりと奪っていく。 レンズの亀裂越しに、キャンバスの真朱(まそほ)の油彩と、土間で痙攣(けいれん)する実咲の青鈍(あおにび)の顔面が幾重にも重なって網膜(もうまく)に焼き付く。

 ヒュッ、ヒュッ、という彼女の喉から漏れる摩擦音。

 チッ、チッ、チッ、という私の爪がガラスを削る摩擦音。

 ドチャリ、と老人が泥のような絵の具をキャンバスへ叩きつける音。

 三十七度の腐臭(ふしゅう)の底で、相反する三つの不規則なノイズが私の鼓膜(こまく)にべったりと張り付き、脳髄(のうずい)を単調なリズムで叩き続ける。 私は口の中に滲み出した微かな鉄の味を舌の上で転がしながら、ルーペを眼窩(がんか)に押し当てる右手の指先の圧を、皮膚の裏の毛細血管(もうさいけっかん)が白く塞がるまでゆっくりと強めていった。


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