第022幕 ――偽りの絶頂と泥臭い支配欲――
万緑の熱気が、分厚い防音ガラスの向こう側で東京のアスファルトを白く茹で上げている。 久松町。美術館の特別展示室の空間は、二秒おきに微弱なモーター音を立てる空調によって、二十四度の無臭の風が絶え間なく循環していた。
一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された大気。
白群の照明が、磨き抜かれた大理石の床に鋭い反射光を落としている。 まるで、無数の巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。
足利の蔵の底で吸い込んだ、あの気管支にべったりとこびりつくような鉄錆と腐肉の重い気体粒子は、この極度に乾燥した冷気の中では完全に揮発し尽くしていた。
フロアを埋め尽くす群衆。 彼らの口から絶え間なく吐き出される音声波形が、幾重にも重なり合って私の鼓膜の表面を微細に叩き続ける。
「五十年間、これほどの色彩と技巧が……」 「未だベールに包まれている最新作の……」
声帯の震えが空気を伝い、不規則な周波数となって空間の酸素を微かに揺らしている。 熱を帯びた呼気が大気に混じり、白群の光の下で微小な熱源となって渦を巻く。
私は壁際に背を預け、左手に持った瑠璃色のバカラグラスの縁を、人差し指の腹でゆっくりと執拗になぞり続けた。
キュッ、キュッ。
精巧にカットされたクリスタルガラスの鋭いエッジと、乾燥した指の皮膚が擦れ合う微細な摩擦音。
キュッ、キュッ、キュッ。
私はなぜ、この光の氾濫の中で彼らの放つ熱気を静かに受け止めているのか。 真の芸術を世に解き放つパトロンとしての高潔な義務。 歴史的な傑作を保護し、その価値を正当な場所へ引き上げるという崇高な使命。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。 理知的で選ばれし者の態度。
その美しい論理の塔を脳内で完成させようとした瞬間。
カラン。
氷がグラスの内壁にぶつかる甲高い音と、アルコールのツンとした刺激臭がゼリー状の塊となって鼻腔を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの足利の蔵の底で私を圧倒し、脅かし続けていた狂気から逃避し、盤石な防音ガラスに囲まれたこの安全圏から、あの男の執念を桁の多い数字で縛り上げて完全に見下ろしたいだけなのだ。 自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖と凡庸さへの劣等感を、この薄っぺらい称賛の声と莫大な資本の力で塗り潰さなければ、私自身が崩壊してしまいそうだからだ。 他者が熱狂する様を安全圏から支配することでしか、己の卑小な怯えを誤魔化せない。
私はグラスを傾け、琥珀色の液体を喉の奥へ流し込んだ。 舌の粘膜でアルコールの芳醇な刺激が弾け、食道から胃壁へ向かって熱い塊が滑り落ちていく。 胃の腑からじわりと広がる熱が血流に乗って四肢の末端まで達し、心拍の速度を不規則に引き上げた。
群衆の放つ音声波形のリズムに合わせるように、私の心臓が肋骨の内側を鈍く叩く。 その音声の波は、私の網膜の裏側で、桁の多い白と黒の数字の羅列へと自動的に変換され、チカチカと不規則な明滅を繰り返していた。
私はグラスを持ったまま、空いた右手をスーツのポケットの底深くへと沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、極端に冷たく、そして滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ。
ポケットの奥で鳴る、爪とガラスの摩擦音。
チッ、チッ。
金属の冷たさが、アルコールの熱で火照った掌の肉に深く食い込み、血流を白くせき止める。 鈍い圧迫感が指の関節から手首へと広がる。
左手の指先で鳴るクリスタルの摩擦音と、右手のポケットの中で鳴る爪の摩擦音。
キュッ、チッ、キュッ、チッ。
二つの不規則な反復動作が、アルコールの熱に浮かされた身体の左右で、完全に独立した無意味なリズムを刻み続ける。
チカッ、チカッ。
網膜の奥で明滅する数字の増殖。
チッ、チッ、チッ。
右手の爪が亀裂を引っ掻く速度が、群衆の放つ音声波形の密度に比例して勝手に上がっていく。 空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の冷風が、私の首筋の表面温度を均等に奪い去っていく中、大理石に乱反射する白群の光の束が網膜の中心に鋭く突き刺さる。
顔の筋肉が不自然な角度で硬直したまま持ち上がり、奥歯がギリギリと硬い音を立てて噛み合わさった。 口の中に微かなインクの酸の匂いが滲み出す中、私は冷え切った金属の質量を掌の肉に押し当てながら、ただガラス越しに群衆の鼓動と光の明滅を、網膜の裏側に焼き付け続けていた。




