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第021幕 ――偽りの平穏と泥臭い逃避――

 薄暑の夜。 東京の中心。 高層階のリビングのガラス窓の向こうには、下界の喧騒を完全に遮断した漆黒の夜景がどこまでも広がっている。 無数のビルの灯りが、網膜(もうまく)の裏側で一定のリズムを刻みながらチカチカと瞬いていた。 まるで、深海で獲物を待つ発光器の――いや、そんな比喩はどうでもいい。 室温は二十四度、湿度は五十パーセント。 吹き出し口から二秒おきに絶え間なく降り注ぐ人工的な微風が、私の皮膚の表面温度を均一に奪い、そして保ち続けている。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された大気。

 足利の薄暗い蔵の底で気管支(きかんし)にべったりとこびりついた、あの鉄錆と腐肉の重い臭気(しゅうき)は、この空間には一粒の粒子すら混入していない。

 白練(しろねり)の壁紙が間接照明の柔らかな光を反射している。 私は革張りのソファに深く背中を沈め、首元を締め付けていたシルクのネクタイをゆっくりと引き抜いた。

 シュッ、と布地が擦れる音が鳴る。

 気管が拡張する。 吸い込んだ空気が、一切の摩擦を生むことなく肺胞(はいほう)の奥底まで滑らかに行き渡り、静かに横隔膜(おうかくまく)を押し上げた。

「お疲れ様。レセプション、大成功だったそうね」 キッチンから静かな足音が近づき、ローテーブルの大理石の上に二つの白磁(はくじ)のカップが置かれた。 硬い陶器と石が触れ合う、

 カチリ、という微小な音。

 琥珀色(こはくいろ)の液体から、深い発酵香を伴った薄い湯気が立ち昇り、私の鼻腔(びくう)粘膜(ねんまく)を優しく撫でた。 私はカップの持ち手に指を掛けた。 陶器の熱が、指の腹から血流に乗って緩やかに伝わってくる。

「新島アートの全面的な後援も得た。美術界の重鎮たちの反応も上々だ」 声帯(せいたい)の震えが、静まり返ったリビングの空気を微かに揺らす。 「あなたがずっと忙しそうに走り回っていたから……」 由佳は自身のカップの縁を両手で包み込み、薄い湯気の向こう側で視線を伏せた。 「個展の準備が落ち着いたら、少しはゆっくりできるかしら。春に話していた日帰り旅行、そろそろ具体的な計画を立てたいわ」

 私はなぜ、この貴重な休息の時間を、彼女と共にあの薄っぺらい紙片が示す目的地への移動に費やそうとしているのか。 これまで私を支えてくれた妻への純粋な労い。 社会的に成功した夫として、健全で完璧な家庭を築き上げるという理性的な責務。 ……そうだ、対外的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 カチリ。

 由佳が自らのカップをソーサーに戻す硬質な陶器の音と、紅茶の深い発酵香がゼリー状の不快な塊となって鼻腔(びくう)の奥を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 妻への労いなど、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの足利の蔵の底で触れた圧倒的な狂気に自分がすでに侵食されているという事実から目を背け、この「無垢な妻」や「平穏な家庭」という記号的な防壁を利用して、自分が安全圏にいる正常な人間だと必死に思い込みたいだけなのだ。 彼女の笑顔と春の旅行という予定を盾にして、自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖から逃避しなければ、私自身が音を立てて崩壊してしまいそうだからだ。 己の卑小さを、この柔らかな間接照明で無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。

 私は左手を持ち上げ、左胸のポケットの表面を外側からゆっくりとなぞった。 布地の裏側にある、一枚の紙片の硬い縁。 春に彼女から受け取った、桜色(さくらいろ)の切符。

 スッ、スッ。

 親指の腹で、スーツの生地越しにその鋭い直線を反復して擦る。

 スッ、スッ、スッ。

 微小な摩擦音。

「ああ。初日さえ迎えれば、私が直接動く必要はなくなる。君の行きたいところを、どこでも手配しよう」

 その一方で、私の右手はスーツの右ポケットの深い底へと沈み込んでいた。 布地の底で、指先が極端に冷たい金属の塊を捉える。 亀裂の入った、銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。

 チッ。

 ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる乾いた音が鳴る。

 チッ、チッ。

 左胸の切符の硬さと、右ポケットの底にある金属の冷気。 二つの異質な温度と質感が、私の身体の左右で完全に独立したまま、私をこの革張りのソファへと深く固定している。

 私は右手の爪でガラスの亀裂を引っ掻く動作を続けながら、左手で白磁(はくじ)のカップを傾けた。 温かい紅茶が舌を滑り落ち、食道を通って胃の腑(いのふ)へ静かな熱を広げていく。

 カチリ。

 カップをソーサーに戻す。 空調の微風が、私の頬の表面を一定の速度で撫でていく。 窓ガラスの向こうに広がる無数の光の明滅。 その漆黒のガラスの表面に、室内の照明を反射した私自身の顔が薄く透けて映り込んでいる。

 チッ、チッ、チッ。

 右手のポケットの中で鳴る金属と爪の摩擦音と、左胸をなぞる布地の摩擦音。 静寂に包まれた一気圧の空間で、ただそれら二つの無意味なリズムだけが、この平穏な時間が永遠に続くかのように、一定の周期を刻み続けていた。


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