第020幕 ――偽りの絶頂と泥臭い支配欲――
青葉の香りを孕んだ初夏の風が、分厚いガラス窓の向こうで音もなく流れている。 東京の都心にそびえ立つ高級ホテルのレセプション会場。 吹き出し口から二秒おきに絶え間なく降り注ぐ二十四度の人工的な冷風が、私の首筋の表面温度を均等に奪い続けている。 まるで、目に見えない巨大なーーいや、そんな比喩はどうでもいい。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された大気。
足利の薄暗い蔵の底で吸い込んだ、気管支にこびりつくような鉄錆と腐肉の重い匂い粒子は、ここには微塵も介在していない。
「これより、私立美術館と共同後援による、金田誠一郎氏の五十年ぶりの個展開催を発表いたします」 マイクを通した電子的な音声波形が、会場の空気を微細に震わせる。 直後、大理石のフロアを埋め尽くす群衆の口から、どよめきと熱を帯びた呼気が一斉に吐き出された。
私の左隣には、新島誠一郎が真っ直ぐな姿勢で並び立っている。 彼の右手には、一寸の染みすら許容しない白練のシルクの手袋が嵌められていた。 頭上のシャンデリアの光を反射するその純白の繊維が、微塵の揺らぎもなく静止している。 彼が私に向けて右手を差し出した。 私はスーツの袖口から右手を伸ばし、その白練の布地に覆われた手を握り込む。 布越しに伝わる微かな体温。
黒服のウェイターが、銀色のトレイに乗せた細長いグラスを運んでくる。 私は左手でグラスの細い脚を掴み上げた。 クリスタルガラスの冷気が、乾燥した指の腹にべったりと張り付く。
私はなぜ、この眩い光と喧騒の中心で、この男と手を結んでいるのか。 歴史的価値を持つ真の芸術を保護し、文化の発展に寄与するため。 社会的に成功した人間が果たすべき、高潔な使命。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
シュワッ。
グラスの底から立ち昇る気泡が弾ける微小な音と、芳醇なアルコールの刺激臭がゼリー状の塊となって鼻腔の奥を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。
文化への寄与など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの足利の蔵の底で私を脅かした狂気や悪臭から逃避し、盤石な防音ガラスに囲まれたこの安全圏から、他者の血脈という最大の秘密を握りつぶして完全に見下ろしたいだけなのだ。 そうして圧倒的な資本と情報の暴力で他者を支配しなければ、私の奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と恐怖が、私自身を喰い破ってしまうからだ。
チカッ、チカッ、チカッ。
無数のカメラのフラッシュが、不規則な周期で激しく明滅を始める。 鋭利な白光の束が網膜の中心に直接突き刺さり、視神経の奥底にチリチリとした微細な熱と痛覚を生む。
私は目を細めることをせず、その強烈な光の点滅を網膜の裏側に直接焼き付けた。 光の残像が黒い斑点となって視界の端に浮遊する。
私はグラスを傾け、冷たい液体を口内へ流し込んだ。 舌の粘膜の上で微炭酸が弾け、アルコールの匂いが鼻腔を抜ける。
食道から胃の腑へ向かって、冷たい液体の塊が滑り落ちていく感覚。 直後、胃壁の内側からじわりと熱が広がり、心拍の速度を不規則に引き上げた。
私はグラスを持ったまま、右手をごく自然な動作でスーツのポケットの底深くへと沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、極端に冷たく、そして滑らかな金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪を、レンズの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ。
爪とガラスが擦れる微小な音。
チッ、チッ。
左手の指先で伝わるグラスの冷気と、右手のポケットの中で鳴る金属と爪の摩擦音。 二つの異なる感触とリズムが、アルコールの熱で火照り始めた身体の左右で、完全に独立したまま無意味な反復を続ける。
眼下の群衆は、シャンパンの気泡のように湧き立ち、絶え間なく音声波形を大気中へ放り投げている。 私の隣で、新島がグラスを掲げながら、口の端を歪な角度で持ち上げた。 彼が今、無数の照明の下に晒そうとしている肖像画のモデルの顔面データ。 それが、他ならぬ彼自身の血脈の起点と同一の座標に重なっているという事実。 その未処理のデータは、この一気圧の空間のどこにも音声波形やインクの染みとして明文化されていない。
フラッシュの光の束が、大理石の床とクリスタルグラスの表面で幾重にも乱反射を繰り返す。
チッ、チッ、チッ。
右手の爪がガラスの亀裂を引っ掻く速度が勝手に上がる。 私は、冷え切った金属の質量を火照った掌の肉に深く食い込ませながら、ただフラッシュの明滅によって白く切り取られる空間の連続を、網膜の裏側に焼き付け続けていた。




