第019幕 ――静寂の毒と泥臭い傍観――
風薫る初夏の午後。 分厚い漆喰壁に守られた足利の蔵。 その重い木扉を両手で押し開けた瞬間、私の気管支を硬く身構えさせていた細胞の緊張が、空振りするように解けていった。 まるで、張り詰めていた見えない糸が——いや、そんな比喩はどうでもいい。
かつてこの空間の底に充満していた、三十七度前後のねっとりとした生温かい微熱も、肺の粘膜にべったりと張り付くような鉄錆と腐肉の悪臭も、もはや微塵も存在しない。 鼻腔を満たしたのは、ひんやりとした二十度前後の乾いた空気と、亜麻仁油の純粋で冷ややかな匂いだけだった。 空気が、一切の抵抗や摩擦を生むことなく気管を通り抜け、肺胞の隅々にまで滑らかに満ちていく。
薄暗がりの中、キャンバスに向かう師匠の背中には、以前のような苦悶の影はなかった。 筆を振るう腕の血管が葡萄色に腫れ上がることもなく、額から脂汗が滲むこともない。 ただ、ひどく乾いた皮膚が薄く骨を覆っている。 彼の手から伸びる、柄が炭化した豚毛の絵筆が、キャンバスの表面を軽やかに滑っていく。
スッ、スッ。
布の繊維と筆の毛が擦れ合う、微細で規則的な摩擦音だけが、耳鳴りのするような静寂の蔵の中に反響している。 パレットの上には、群青色と伽羅色の顔料が置かれていた。 それらは、私がかつて目撃したように、ぶくぶくと泡を立てて黒橡の泥へと崩れ落ちることはない。 絵の具は鮮やかな色彩を保ったまま、筆の先で掬われ、キャンバスの布地へと吸い込まれるように定着していく。
私はなぜ、この異常なほど澄み切った空間で、彼の筆の動きを静かに見守っているのか。 純粋な芸術が完成する最後の瞬間を見届けるため。 真の才能に寄り添う、理解者としての静かなる使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。 この静寂こそが、芸術が到達した至高の領域なのだと。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
スッ、スッ。
キャンバスを撫でる筆の摩擦音と、鼻腔を抜ける亜麻仁油の冷ややかな匂いがゼリー状の塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。 理解者としての使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。
私はただ、あの蔵の底で私を圧倒し、脅かし続けていた狂気と悪臭から解放されたことに安堵し、この無菌室のような冷ややかな空間で、彼が静かに、そして確実に死へと向かっていく様を安全圏から傍観したいだけなのだ。 圧倒的な熱量に怯えていた己の卑小さを覆い隠すために、この不気味な透明感を「平穏」として消費し、彼が枯渇していくのをただ見下ろしていたいという醜悪なエゴ。
私は右手を、スーツのポケットの奥深くへと滑り込ませた。 布地の底。指先が、冷たい金属の感触を捉える。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 私はその金属の縁を、親指の腹でゆっくりと撫でた。
ツッ、ツッ。
乾燥した指の皮膚が、冷たい金属の表面を滑る音。
ツッ、ツッ、ツッ。
右手の掌にあった火傷の痕の鈍痛は、すでに完全に消え去っていた。 私はルーペをポケットから引きずり出し、右目に押し当てるという動作を起こさなかった。 胸の奥の心拍が、時計の秒針のように狂いなく一定のリズムを刻んでいる。 体温の上昇も、発汗もない。
蔵の小さな窓から、初夏の一筋の光が斜めに差し込んでいる。 その光の束の中を、極めて微小な埃の粒子が、重力に従って均等な速度で舞い落ちていくのが見える。 私の視界に入るすべての物質の運動が、私の鼓動のペースと完全に同期して動いているかのような、異様なほどの透明感。
スッ、スッ。
キャンバスを撫でる筆の音。
ツッ、ツッ。
ポケットの奥で、金属の縁を撫でる私の親指の摩擦音。
二つの微小な音が、冷え切った蔵の大気の中で完全に重なり合い、単調なリズムを刻み続ける。 私は、窓から差し込む光が群青色の顔料を美しく照らし出すのをただ静かに見つめながら、己の卑小なエゴを冷たい大気の底に沈め、ポケットの中で親指の反復動作を、いつまでも止めることなく繰り返していた。




