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第018幕 ――偽りの絶頂と泥臭い逃避――

 新緑の眩い光が、分厚い防音ガラスの表面で乱反射し、大理石の床に鋭角の影を無数に刻み込んでいる。 まるで、天から降り注ぐ無数の極小の刃が空間を――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 東京の中心。 高層階のラウンジフロア。 空調の吹き出し口から絶え間なく降り注ぐ二十四度の人工的な冷風が、私の首筋から均等に熱を奪っていく。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された大気。

 口蓋の裏側には、琥珀色(こはくいろ)の液体の強いアルコール(しゅう)と、微かな微炭酸の刺激が張り付いていた。 足利の蔵の底で吸い込んだ、あの気管を塞ぐような鉄錆と腐肉の重い粒子は、この極度に乾燥した空間の中では完全に揮発し尽くしているはずだった。

「新島アートを巻き込み、これほどの規模で……」 「五十年間沈黙していた画家の……重鎮たちも……」

 周囲を取り囲む群衆の口から、無数の音声波形が吐き出される。 (ねつ)を帯びた呼気(こき)が大気を揺らし、声帯の震えが空気を伝って私の鼓膜(こまく)を微細に叩く。

 私はなぜ、この眩い光と喧騒の中心で、彼らの賞賛の波形を浴びているのか。 真の芸術を世に問うパトロンとして、歴史に埋もれた才能を保護し、文化の発展に寄与するため。 社会的に成功した人間が果たすべき、高潔な使命。 ……そうだ。対外的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 カラン。

 氷が瑠璃色(るりいろ)のバカラグラスの内壁にぶつかる甲高い音と、微炭酸の弾けるアルコールの刺激臭(しげきしゅう)がゼリー状の塊となって鼻腔(びくう)を突き刺し、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 文化への寄与など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの蔵の底で私を圧倒した狂気から逃避し、盤石な防音ガラスに囲まれたこの安全圏から、あの男の狂気と新島の傲慢さを桁の多い数字で縛り上げて完全に見下ろしたいだけなのだ。 そうして圧倒的な資本の暴力で他者を踏み台にしなければ、私の奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と恐怖(きょうふ)が、私自身を喰い破ってしまうからだ。

 私は、左手に持ったバカラグラスの縁を、親指の腹で執拗になぞり続けていた。

 ツッ、ツッ。

 精巧にカットされたクリスタルガラスの鋭いエッジが、乾燥した指の皮膚を微かに削る。

 ツッ、ツッ、ツッ。

 グラスを傾け、琥珀色(こはくいろ)の液体を喉の奥へ流し込んだ。 食道から胃の腑(いのふ)へ向かって、アルコールの熱い塊が滑り落ちていく。 胃壁の内側からじわりと広がる(ねつ)。 その(ねつ)が血流に乗って四肢の末端まで達し、心拍(しんぱく)の速度を不規則に引き上げる。 視界の端で、若竹色(わかたけいろ)の街路樹と、コンクリートの四角い網目が幾何学的な模様を描いて地平の彼方まで広がっている。 網目に太陽の光が反射し、鋭い光の束となって網膜(もうまく)に直接突き刺さる。

 ツッ、ツッ。

 グラスの縁をなぞる左手の動きが、さらに速度を上げる。

 私は右手を、スーツのポケットの底深くへと沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、極端に冷たい金属の縁を捉える。 亀裂の入った、銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 右手の(てのひら)には、ひきつった(ひきつった)火傷の痕が残っている。 私はその焼け焦げた神経の末端を、冷え切った金属の質量に深く押し当てた。

 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。

 チッ、チッ。

 爪とガラスが擦れる微小な音。

 左手の指先で鳴るクリスタルの摩擦音と、右手のポケットの中で鳴る金属と爪の摩擦音。

 チッ、ツッ、チッ、ツッ。

 二つの不規則な反復動作が、アルコールの(ねつ)で火照った身体の左右で、完全に独立した無意味なリズムを刻み続ける。

 金属の冷たさが、火照った(てのひら)(ねつ)をゆっくりと奪っていく。 私はポケットの奥でルーペをさらに強く握り込み、金属の縁を(てのひら)(にく)に深く食い込ませた。 血流が白くせき止められ、鈍い圧迫感が走る。

 喉の奥から込み上げるアルコールの熱気(ねっき)と、空調がもたらす首筋の冷気。 大理石の床に乱反射する光の束が網膜(もうまく)を刺し、私は目を細めた。

 チッ、チッ、チッ。

 右手の爪がガラスの亀裂を引っ掻く速度が、周囲の音声波形の密度に比例して勝手に上がっていく。 顔の筋肉が不自然な角度で硬直(こうちょく)したまま持ち上がり、奥歯がギリギリと硬い音を立てて噛み合わさった。 口の中に、微かな血の味と、インクの酸の匂い(におい)が滲み出していた。


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