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第017幕 ――他者の破滅と泥臭い消費――

 若葉の照り返しが、足利の乾いたアスファルトを白く焼いている。 分厚い漆喰壁の前に立ち、重い木扉を両手で押し開いた。 蝶番の軋む音と共に、初夏の乾いた空気は背後で完全に遮断された。 一歩足を踏み入れると、三十七度前後のねっとりとした生温かい大気が、衣服の隙間から皮膚へべったりと張り付いてくる。 鼻腔(びくう)の奥に、酸化しきった鉄錆の粒子が入り込み、気管支(きかんし)粘膜(ねんまく)をチリチリと刺激した。

 まるで、巨大な肺胞の――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 背後で、同行させた助手である実咲の喉が、ヒュッと不自然に鳴る。 彼女の靴底が土間を擦る乾いた音がした。

 私は左手の親指の爪を、右手の(てのひら)に残る火傷の痕に深く押し当てた。

 ツッ。

 引き攣った(ひきつった)皮膚の表面が薄く凹み、鈍い痛覚(つうかく)の信号が腕の神経を駆け上がる。

 ツッ、ツッ。

 痛み(いたみ)に意識の焦点を絞り込む。 東京の二十四度に管理された空調風の記憶が網膜(もうまく)の裏側に薄く張り付く中、私はその局所的な痛覚(つうかく)によって、気管支(きかんし)を塞ぐ鉄錆の匂いを強引に肺の奥底へと押し込んだ。

 薄暗がりの中、キャンバスに向かう師匠の背中が動いている。 柄が黒く炭化した豚毛の絵筆が、空気を切り裂く。 パレットの上に絞り出された真朱(まそほ)瑠璃色(るりいろ)の顔料が、筆の先で重く混ざり合う。

 ドチャリ、ドチャリ。

 粘り気のある重い飛沫がキャンバスに叩きつけられ、布地を引き掻く音が漆喰壁に反響する。

 なぜ私は、狂気に侵されていくこの男の筆を止めようとしないのか。 命を削ってでも到達すべき至高の芸術を完成させるため。 歴史的な傑作の誕生を最後まで見届けるという、パトロンとしての高潔な使命。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

「う、ぐ……ッ」

 師匠の喉の奥から漏れ出した空気が擦れる摩擦音と、背後に立つ実咲のヒュッという怯えた吸気音が、ゼリー状の不快な塊となって思考の糸をあっさりと焼き切った。

 高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、他者が自らの(にく)と精神を削り取りながら破滅していく様を、安全な場所から見世物として消費したいだけなのだ。 彼が命をすり減らして生み出す絵の具の塊を、私が管理する無機質な数字へと変換し、絶対的な資本で支配することでしか、己の奥底に澱む凡庸さへの劣等感を塗り潰せないからだ。

 彼が筆を走らせるたび、右腕の静脈が葡萄色(えびいろ)にボコボコと膨れ上がる。 皮膚の下を、目に見えない無数の細かいガラスの破片が逆流しているかのような、チリチリとした微細な音が大気を震わせる。

 師匠の額から噴き出した汗が、土間へと滴り落ちる。 彼の(あご)の筋肉が硬く引き攣り(ひきつり)、奥歯がギリギリと軋む音が、鉄錆の匂いと混ざり合って私の鼓膜(こまく)に直接まとわりついてきた。

 ツッ、ツッ。

 私は左手の爪で火傷の痕をさらに強く押し込みながら、空いた右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。

 布地が擦れる微かな音。 指先が、極端に冷たい金属の縁を捉える。 銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。

 火照った(てのひら)(にく)に、冷え切った金属の質量が深く食い込む。 私はそのままゆっくりと腕を持ち上げ、冷たいガラスと金属の縁を右の眼窩(がんか)に固く押し当てた。

 レンズの表面を斜めに走る微小な亀裂。 私は、親指の爪をその亀裂の溝に引っ掛け、強く擦った。

 チッ、チッ。

 爪とガラスが擦れる微小な音。

 レンズ越しに、師匠の皮膚の下で膨張する葡萄色(えびいろ)の血管と、キャンバスに定着していく真朱(まそほ)の顔料の色彩が交差する。 鉄錆の匂いを含んだ三十七度の生温かい大気が、私の首筋にねっとりと絡みつく。

「……そのまま、描き続けてください」

 私の声帯が震え、低く掠れた音声波形が土間の空気を微かに揺らした。

 チッ、チッ、チッ。

 右手の爪がルーペの亀裂を引っ掻く速度が上がる。 金属の冷気が右目の周囲の熱をじわりと奪っていく。 口の中の粘膜(ねんまく)がひどく乾燥し、舌の根元に微かなインクの酸の匂いと金属の味が滲み出してきた。

 師匠の腕の血管が軋む音と、キャンバスを打つ筆の音。背後で実咲が呼吸を強張らせるノイズ。そして、私の爪がガラスを削る微細な摩擦音だけが、この生温かく重い大気の底で、一定の周期を保ったまま反復し続けていた。


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