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第016幕 ――偽りの絶頂と泥臭い支配欲――

 行く春の白光が、分厚いガラス窓を透過して商社の大会議室の大理石を鋭角に切り取っている。 まるで、天から振り下ろされた巨大な――いや、そんな比喩はどうでもいい。 吹き出し口から二秒おきに送り出される二十四度の無臭の風が、一気圧・酸素濃度二十一パーセントの大気を均等に循環させている。 足利の薄暗い蔵の底で吸い込んだ、あの鉄錆と腐肉の重い匂い(におい)粒子は、この極度に乾燥した空間では完全に揮発しているはずだった。 だが、舌の根元には硬貨が金属板を叩くような、数字とインクの酸っぱい匂い(におい)だけがべったりと張り付いている。

「新島アートの全面後援を取り付けるとは。あの人の手腕は……」 「ああ。五十年間も沈黙していた幻の天才画家の最新作だ。画壇の重鎮たちも……」

 大会議室に集まった部下や取引先たちの口から放たれる音声波形が、幾重にも重なって鼓膜(こまく)の表面を微かに震わせる。 私は革張りの椅子に深く腰を沈め、鼓膜(こまく)を撫でるその音声波形のリズムに合わせて、右手の親指の腹でデスクの縁を、

 トントン、トントン。

 と一定の間隔で叩き続けた。

 私はなぜ、この無機質な空間で彼らの賞賛の波形を浴びているのか。 真の芸術を世に送り出し、文化の発展に寄与するため。 社会的に成功したビジネスマンとして、歴史的な価値を正当に保護する高潔な使命。 ……そうだ、対外的な建前としては完璧だ。 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 部屋の隅に置かれた白緑(びゃくろく)の観葉植物の葉が、規則的な人工風を受けて、

 カサリ。

 と鳴る硬い音と、インクの鋭い化学臭(かがくしゅう)鼻腔(びくう)の奥でゼリー状に混ざり合い、思考の糸をあっさりと焼き切った。 文化の発展など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの蔵の底で触れた圧倒的な狂気や、新島の傲慢な白練(しろねり)の手袋を、自分の支配できる無機質な数字とインクの染みへと還元し、私と同じ息苦しい(いきぐるしい)一気圧の泥水の中へ引きずり下ろして完全に見下ろしたいだけなのだ。 そうして他者を圧倒的な資本の暴力で叩き潰すことでしか、自らの奥底で暴走を続ける得体の知れない劣等感と恐怖から逃避できないからだ。

「部長、こちらが個展に向けた最終の進行ファイルです」 若手社員が、両手で分厚い紙の束を差し出してきた。 洗朱(あらいしゅ)の硬い厚紙の表紙。 めくると、再びインクの化学臭(かがくしゅう)鼻腔(びくう)を突く。 右手の(てのひら)の奥深く、皮膚の下で焼け焦げた神経の末端が、心拍(しんぱく)に合わせて、

 チリ、チリ。

 と微細な(ねつ)を放っている。 その局所的な(ねつ)を、私は左手の親指の爪で右手中指の第一関節を強く擦ることで上書きする。

 ツッ、ツッ。

 乾燥した皮膚が擦れる音。 私は胸元から抜いた漆黒の万年筆のキャップを外した。

 カチッ。

 ペン先を紙の繊維へと突き立てる。

 カリッ、カリッ。

 硬いペン先が紙の表面を削る音が響く。 インクが紙に染み込み、黒々とした軌跡を定着させていく。

 カリッ、カリッ。

 私は空いた右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、冷たく重い金属の縁を捉える。 銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。

 チッ、チッ。

 爪とガラスが擦れる微小な音。 冷え切った金属の質量が、火照った(てのひら)(にく)に深く食い込み、血流(けつりゅう)をせき止める鈍い圧迫感を生む。

 チッ、チッ。

 足利の蔵で飛び散った錆色の泥も、新島アートの白練(しろねり)の手袋も、すべてはこの冷たい金属の重みとインクの染みの中へと収束していく。

「引き続き、進めろ」 私の口から放たれた音声波形が空気を震わせると、部下たちの声帯(せいたい)が一斉に震え、会議室の酸素が微かに揺らいだ。 窓の外に広がるアスファルトとコンクリートの網目は、太陽の光を正確な角度で反射し続けている。 私はポケットの中でルーペの亀裂を執拗に引っ掻き続けた。

 チッ、チッ、チッ。

 爪先から伝わる微細な振動。 空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の冷風が、私の頬の表面の(ねつ)を均等に奪い去っていく中、分厚いガラス窓に映る私の顔は、鋭い春の光に縁取られながら、口の端を歪な角度で硬く持ち上げたままピタリと固定されていた。


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