第015幕 ――無垢な道連れと泥臭い逃避――
惜春の淡い陽光が、分厚い防音ガラスを透過して大理石の床に力なく落ちている。 まるで、薄皮を剥がされた――いや、そんな比喩はどうでもいい。
東京・久松町。 館長室の空間は、二秒おきに微弱な電子音を立てる空調によって、二十四度の乾燥した風として絶え間なく循環していた。
アルコール消毒液の微細な化学臭が、鼻腔の粘膜をチリチリと刺激する。
皮膚の表面から急速に水分が奪われ、薄い皮が突っ張るような摩擦が顔全体に張り付いた。 足利の蔵で吸い込んだ、あの鉄錆と腐肉の重い臭気は、この極度に乾燥した冷気の前では完全に揮発し尽くしているはずだった。
マホガニーのデスクを挟み、向かいの革張りの椅子には新島誠一郎が真っ直ぐな姿勢で腰を下ろしている。 彼の両手には、一寸の染みすら許容しない白練のシルクの手袋が嵌められていた。 彼はその手袋の皺を、微塵の音も立てずに几帳面な動作で撫で付けている。
「現地での作品管理と、メディアへ向けたプロモーションの進行についてですが」 新島の声帯の震えが、冷え切った空気を伝って鼓膜の表面を微かに圧迫する。
「当館のインターンを一名、同行させます。足利の環境基準が要件を満たしているか、彼女に確認・報告させる必要がある」
大理石のテーブルの表面を滑るようにして、一枚の紙片が差し出された。 そこには、二十代前半の若い女性、新島実咲の経歴が黒々としたインクで印字されている。
私はなぜ、この無垢な娘をあの狂気の底へと引きずり込むような条件を、あっさりと呑もうとしているのか。 若き才能の育成。 現場での厳格な環境基準の確認という、プロフェッショナルとしての誠実な対応。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
カチッ。
私が左手の親指で弾いた、スーツの内ポケットに挿した漆黒の万年筆のクリップの硬質な音と、アルコール消毒液の鋭い化学臭が鼻腔の奥でゼリー状に混ざり合い、思考の糸を無遠慮に焼き切った。
若き才能の育成など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの蔵の底で私を圧倒した狂気の気配から逃避し、自分だけが怯えたという事実を消去するために、この無知な娘をあの黒橡の泥の中へ道連れにしてやりたいだけなのだ。
気管支を灼くあの悪臭を吸い込んだ時、彼女の網膜と鼓膜がどのように無様に変容するか。 分厚い防音ガラスの向こう側の安全圏から、他者が泥に塗れる様を見下ろすことでしか、自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖を塗り潰せないからだ。
カチッ、カチッ。
万年筆のクリップを弾く速度が勝手に上がる。 右手の掌の奥深くで、焼け焦げた神経の末端が心拍に合わせてズキリと鈍い熱を放つ。 火傷の熱と、金属の冷気。
局所的な痛覚に意識の焦点を絞り込み、私は左手の反復動作を止めて漆黒の万年筆を引き抜いた。
キャップを外す微かなクリック音。 インクの微かな酸の匂いが、消毒液の化学臭に混じって鼻腔を突く。
「……了承しました。彼女の同行は、大きな助けとなるでしょう」 声帯を震わせて放り投げた音声波形と共に、私は手元にある分厚い契約書の署名欄に、ペン先を真っ直ぐに突き立てた。
カリッ、カリッ。
硬いペン先が紙の繊維を削る音が、静まり返った館長室に連続して響き渡る。 インクが紙に染み込み、黒々とした染みを形成していく。 ペンを走らせるたび、右手の火傷の痕がズキリと脈打つ。
「では、彼女には近日中に合流させます。くれぐれも、万全を期していただきたい」 「もちろんです」
私は署名を終えた契約書を、大理石のテーブルの中央へと音もなく押し返した。 そして、右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませる。
布地が擦れる微かな音。
指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 銀鼠の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。
チッ、チッ。
爪とガラスが擦れる微小な音。
冷え切った金属の質量が、火照った掌の肉に深く食い込み、血流をせき止める鈍い圧迫感を生む。 この娘の経歴のインクの染みが、あの蔵の中で凍結された五十年前の絵の具の顔料と同一の空間に重なる。
チッ、チッ、チッ。
爪で亀裂を引っ掻く速度が上がる。
空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の冷風が、私の頬の表面の熱を均等に奪い去っていく中、大理石のテーブルの上に置かれた漆黒の契約書だけが、冷たく乾いた光を反射し続けていた。




