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第014幕 ――資本の暴力と泥臭い逃避――

 晩春の光が、分厚い防音ガラスを透過して大理石の床に鋭く落ちている。 まるで、見えない刃が空間を――いや、そんな比喩はどうでもいい。 東京・久松町。 館長室の空間は、二秒おきに微弱な電子音を立てる空調によって、二十四度の乾燥した風として絶え間なく循環していた。

 アルコール消毒液の鋭い化学臭(かがくしゅう)が、鼻腔(びくう)粘膜(ねんまく)をチリチリと刺激する。

 皮膚の表面から急速に水分が奪われ、薄い皮が突っ張るような摩擦が顔全体に張り付いた。 足利の蔵で吸い込んだ、あの鉄錆と腐肉の重い臭気(しゅうき)は、この極度に乾燥した冷気の前では完全に揮発し尽くしているはずだった。

 向かいの革張りの椅子には、新島誠一郎が真っ直ぐな姿勢で腰を下ろしている。 彼の両手には、一寸の染みすら許容しない白練(しろねり)のシルクの手袋が嵌められていた。 その両手が、マホガニーのテーブルの上の分厚い条件書を私の方へ音もなく滑らせる。

「当館が後援する以上、輸送から展示環境の温度・湿度管理に至るまで、すべて厳格な基準に従っていただきます」 新島の声帯の震えが、冷え切った空気を伝って鼓膜(こまく)の表面を微かに圧迫する。

 私はなぜ、これほどまでに法外な条件をすべて飲み込んでまで、この男と契約を交わそうとしているのか。 真の芸術を妥協なく世に問うため。 天才の遺産を完璧な環境で保護し、後世へと残すという、パトロンとしての高潔な使命。 ……そうだ、社会的な大義名分としては完璧だ。

 その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。

 カチッ。

 私が左手の親指で弾いた漆黒の万年筆のクリップの硬質な音と、アルコール消毒液の鋭い化学臭(かがくしゅう)鼻腔(びくう)の奥でゼリー状に混ざり合い、思考の糸を無遠慮に焼き切った。

 高潔な使命など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの蔵の底で私を圧倒した狂気の気配から逃避し、この盤石な防音ガラスに囲まれた無菌室の支配者である新島を、桁の多い圧倒的な資本の暴力で丸裸にしてやりたいだけなのだ。 自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖(きょうふ)と劣等感を、この莫大な数字の羅列で新島の顔面に叩きつけなければ、私が私自身を保てないからだ。

「追加の空調コンテナの手配、展示室の環境制御設備への投資、莫大な保険契約」 私は青磁色(せいじいろ)のティーカップを持ち上げ、縁に口を当てた。 渋みの強い紅茶の温かい液体が、乾燥した舌を滑り落ちていく。

 カップをソーサーに戻す硬い陶器の音が鳴った直後、私は冷え切った大気の中に、膨大な数字の羅列を音声波形として放り投げた。 「すべての追加費用は、私が持ちます。新島アートは、その名前と場所を貸していただくだけでいい」

 空調の吹き出し口から、人工的に乾燥させられた微風が降り注ぐ。 新島の手袋が、マホガニーのテーブルの上でピタリと静止した。

 シュッ。

 シルクの繊維が木材の表面を微かに擦る音が鳴る。

 私は万年筆のキャップを外し、手元にある分厚い企画書の承認欄にペン先を突き立てた。

 カリッ、カリッ。

 硬いペン先が紙の繊維を削る音が、静まり返った館長室に連続して響き渡る。 インクが紙に染み込み、黒々とした染みを形成していく。 ペンを走らせるたび、右手の(てのひら)の奥底で、かつて焼け焦げた神経の末端がズキリ、ズキリと心拍(しんぱく)に合わせて鈍い痛覚(つうかく)を放つ。

 その局所的な痛み(いたみ)に意識の焦点を絞り込み、私は新島の白練(しろねり)の手袋がマホガニーのテーブルの上でわずかに硬直(こうちょく)しているのを視界の端に捉えながら、ひたすらにペン先を動かし続けた。

「……分かりました。その条件で、進めましょう」 重く淀んだ数秒の空白の後、新島の喉の奥から掠れた音声波形が漏れ出した。

 私は右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。

 チッ、チッ。

 爪とガラスが擦れる微小な音。

 冷え切った金属の質量が、火照った(てのひら)(にく)に深く食い込み、血流をせき止める鈍い圧迫感を生む。 空調の吹き出し口から降り注ぐ冷風が、私の頬の表面の熱を均等に奪い去っていく。

 チッ、チッ、チッ。

 爪で亀裂を引っ掻く速度が上がる。 分厚いガラス窓に映る私の顔は、鋭い晩春の光に縁取られながら、消毒液の匂い(におい)が充満する空間の中で、口の端を歪な角度で硬く持ち上げたまま固定されていた。


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