第013幕 ――狂気の独白と泥臭い逃避――
春深き午後。 分厚い漆喰壁に遮られ、外界のうららかな陽光はここには一筋も届かない。 足利の蔵の奥底には、三十七度前後のねっとりとした生温かい大気が重く滞留していた。 古い文机の上に置いた黒檀のボイスレコーダー。 その表面の微細な木目を、私は左手の人差し指でゆっくりとなぞり続けた。
スッ、スッ。
乾燥した指の腹が硬い木肌と擦れ、ごく小さな摩擦音を立てる。
スッ、スッ。
等間隔で明滅する赤い録音ランプの光が、網膜にチカチカと焼き付く。 まるで、血をすする単眼の――いや、そんな比喩はどうでもいい。 「先生。高知大学の講師の職を辞した五十年前。あの空白の期間に、何があったのですか」 私の声帯の震えが、生温かい空気を伝って闇の中へ消える。
私はなぜ、わざわざこの息苦しい暗熱の底で、彼の過去を録音しようとしているのか。 歴史に埋もれた天才の真実を記録し、後世へと残すため。 芸術の庇護者としての、私の誠実で高潔な使命。 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理を脳内で完成させようとした瞬間。
スッ、スッ。
指の腹が木肌を擦る音と、ボイスレコーダーの赤いランプの不規則な明滅がゼリー状の重い塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。 真実の記録など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、この蔵の底で私を圧倒し続ける狂気と五十年の重みを、この薄っぺらい黒檀の機械の中に吸い込ませ、安いデジタルデータへと還元してやりたいだけなのだ。 得体の知れない熱量で私を脅かすこの男の人生を、私の支配できる無機質な音声ファイルに閉じ込め、安全圏から見下ろさなければ、私の自我がこの生温かい大気に押し潰されてしまいそうだからだ。
キャンバスに向かい、柄が炭化した豚毛の絵筆を握りしめていた老人の背中が、ピタリと静止した。 「……私の言葉が、一人の教え子の人生を狂わせた」 ひび割れた粘膜を無理やり震わせたような、ひどく掠れた音声波形。 一人の女生徒を大学から放逐し、その人生のすべてを奪ったという事実の羅列。 その音声が黒檀の機械に吸い込まれていくのを眺めながら、私の舌の根元からじわりと唾液が分泌された。 舌先が上顎の裏側を這う。 口の中に、微かなインクの酸の匂いと鉄の味が滲む。
私は左胸のポケットの上から、そこにある桜色の紙片の硬い縁を親指の爪で弾いた。
チッ。
布地越しに伝わる微かな抵抗。 東京の二十四度に管理された冷たい風の記憶が、網膜の裏側に薄く張り付く。 「重い十字架ですね」 声帯を震わせ、形だけの音声波形を空中に放り投げた、その瞬間だった。
「十字架ではない!」
老人が振り返り、喉仏を激しく上下させて叫んだ。 眼窩の奥底で、毛細血管が充血し、眼球が不規則な痙攣を起こしている。 「あれは、キャンバスの中に永遠を固定するための、必然だった! 彼女のくだらない人生など、絵の具の下地にされて然るべきだったのだ!」
その凄まじい声量と共に、蔵の空間を支配していた生温かい大気が、突如としてゼリー状の重い粘液へと変質した。 酸化しきった鉄錆の鋭い粒子と、腐りかけた肉の甘ったるい死臭がドロドロに混ざり合い、鼻腔から気管支の入り口にかけて分厚い膜を形成する。 酸素が完全に遮断され、横隔膜が不規則に硬直した。
悪臭の震源は、老人の足元にあるパレットだった。 チューブから絞り出されたばかりの真朱や瑠璃色の顔料が、ぶくぶくとどす黒い泡を立てながら急速に黒橡の重い泥へと崩れ落ちていく。 老人はその泥を炭化した筆ですくい上げ、キャンバスへと執拗に叩きつけ始めた。
ドチャリ、ドチャリ。
粘り気のある重い飛沫が飛び散り、漆喰壁に反響して鼓膜に直接まとわりつく。 息ができない。 ゼリー状の臭気が気道を塞ぐ中、私は右手をスーツのポケットの底へと深く沈み込ませた。 布地が擦れる微かな音。 指先が、冷たく滑らかな金属の縁を捉える。 銀鼠の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。
カリッ、カリッ。
ポケットの奥で鳴る、金属と爪の摩擦音。
カリッ、カリッ、カリッ。
首筋にねっとりと張り付く三十七度の微熱。
ドチャリ、という泥の音と、カリッという爪の摩擦音が、赤い録音ランプの明滅と完全に同期して私の脳髄を単調なリズムで叩き続ける。 私は、気管支を塞ぐ腐肉の匂いを深く吸い込みながら、ルーペの冷たい金属を火照った掌の肉に深く食い込ませた。 顔の筋肉が歪な角度で持ち上がり、奥歯がギリギリと硬い音を立てて噛み合わさる。 泥の跳ねる音と赤い光だけが、この息苦しい暗熱の底で、どこまでも反復を続けていた。




