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第012幕 ――記録の破綻と泥臭い支配欲――

 春の昼下がり。 足利の乾いたアスファルトに、うららかな陽光が落ちている。 私は歩きながら、左胸のポケットに忍ばせた桜色(さくらいろ)の切符の硬い縁を、親指と人差し指でゆっくりとなぞった。

 スッ、スッ。

 紙の鋭い断面が、乾燥した指先の皮膚を微かに削る。

 スッ、スッ。

 その微小な摩擦音に意識の焦点を絞る。 東京のマンションで二十四度に設定された空調の微風。 その皮膚を撫でる冷たい記憶が、網膜(もうまく)の裏側に薄く張り付いている。

 分厚い漆喰壁の前に立ち、重い木扉を両手で押し開いた。

 外界の乾いた春の空気は完全に遮断され、三十七度前後のねっとりとした生温かい大気が、衣服の隙間から首筋にべったりとまとわりついてきた。 鼻腔(びくう)の奥に、パレットの上で錆色(さびいろ)に変色しかけた顔料の匂い(におい)と、腐りかけた肉の甘ったるい微粒子がこびりつく。 右手の(てのひら)の奥で、火傷の痕が心拍(しんぱく)に合わせてズキリ、ズキリと鈍い(ねつ)を発した。

 私は奥歯を強く噛み合わせ、舌の根を上顎に押し当てて唾液(だえき)を飲み込む。

「先生。プロモーション用の資料をまとめたいのです」 薄暗がりの中、キャンバスに向かう丸めた背中へ声をかけ、持参した黒檀のボイスレコーダーを古い文机に置いた。

 カチッ。

 スイッチを押し込む硬い感触。 赤い録音ランプが、闇の中で規則的な点滅を始める。 まるで、血をすする単眼の――いや、そんな比喩はどうでもいい。

 私はなぜ、わざわざこの息苦しい暗熱の底で、彼の過去を録音しようとしているのか。 歴史に埋もれた天才の真実を記録し、後世へと残すため。 芸術の庇護者としての、私の誠実で高潔な使命。

 ……そうだ。社会的な建前としては完璧だ。

 その美しい論理を脳内で完成させようとした瞬間。

 カチッ、カチッ。

 ボイスレコーダーの赤いランプの不規則な明滅と、肺の奥を撫で回す腐肉の悪臭(あくしゅう)がゼリー状の重い塊となって、思考の糸をあっさりと焼き切った。

 真実の記録など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、この蔵の底で私を圧倒し続ける狂気と五十年の重みを、この薄っぺらい黒檀の機械の中に吸い込ませ、安いデジタルデータへと還元してやりたいだけなのだ。 得体の知れない熱量(ねつりょう)で私を脅かすこの男の人生を、私の支配できる無機質な音声ファイルに閉じ込め、安全圏から見下ろさなければ、私の自我がこの生温かい大気に押し潰されてしまいそうだからだ。

 師匠は振り返ることなく、柄が黒く炭化した豚毛の絵筆をゆっくりと置いた。 「……話すような過去など、私にはないよ」 ひび割れた声帯の震えが、埃っぽい空気を伝って私の鼓膜(こまく)を撫でる。 高知大学の講師の座。 京都の小さな画廊。 閉鎖されたシャッター。 二束三文で手放された土地の権利書。 師匠の口から零れ落ちる音声の波形が、赤いランプの明滅と共に、黒檀の機械の奥へ固定されていく。

 私は右手をスーツのポケットの底へ深く沈み込ませた。 冷たく滑らかな金属の感触。 銀鼠(ぎんねず)の鑑定用ルーペ。 親指の爪を、レンズを走る微細な亀裂の溝に引っ掛け、強く擦る。

 チッ、チッ。

 爪とガラスが擦れる微小な音。 火傷の鈍い痛覚(つうかく)と、金属の冷気。 局所的な温度差が指先の感覚を麻痺(まひ)させていく。 他人の口から語られる五十年分の時間の重みが、私の網膜(もうまく)の裏側で桁の多い白黒の数字の羅列となってチカチカと明滅し始める。

 チッ、チッ、チッ。

 爪で亀裂を引っ掻く速度が上がる。 火照った(てのひら)(にく)に金属の縁が深く食い込み、血流がせき止められる。

 師匠のひび割れた声が、唐突に途切れた。

 赤いランプは点滅を続けているが、機械は蔵の中に反響する微小な環境音しか拾っていない。 大学の講師の職を捨てるに至った、五十年前の出来事。 その部分だけが、ぽっかりと抜け落ちている。

 沈黙。

 蔵の中に淀む生温かい大気が、突如として鉛のような質量を持ち、私の鼓膜(こまく)を内側へ向かって強く圧迫し始めた。 腐肉の匂い(におい)の粒子が、濃度を増して鼻腔(びくう)粘膜(ねんまく)を覆い尽くす。

 チッ、チッ。

 右手の親指がルーペの亀裂を執拗にこする。 左胸のポケット越しに、桜色(さくらいろ)の紙片の硬さが心臓の拍動(はくどう)を布越しに伝えてくる。 師匠の背中は動かない。

 ポトリ。

 炭化した絵筆の毛先から、錆色(さびいろ)の泥が床へ落ちる鈍い音が鳴った。 私は赤いランプの一定の点滅と泥の悪臭(あくしゅう)気道(きどう)を塞がれながら、右手の爪がガラスを削る微細な振動だけを、この密閉された暗熱の底でただひたすらに感じ続けていた。


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