第011幕 ――偽りの平穏と無意味な交差――
風光る(かぜひかる)朝。 東京の空は、チリ一つない勿忘草色に澄み渡っている。
高層マンションの分厚い防音ガラスの向こう、眼下のアスファルトを這う群衆の影が、春の陽光を反射して規則的に動いていた。 まるで、巨大な透明の培養土の中で蠢く無菌状態の――いや、そんな比喩はどうでもいい。
室温は二十四度。 空調の吹き出し口から、計算し尽くされた微風が絶え間なく降り注ぎ、私の皮膚の表面温度を均一に保ち続けている。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定された空間。
足利の蔵の底で鼻腔にこびりついた、あの鉄錆と腐肉の重い臭気は、この部屋の気密性には微塵も干渉できないはずだった。
ただ、深く焙煎された珈琲の焦げたような苦い香りだけが、静かに大気を満たしている。
ダイニングテーブルの向こう側。 妻の由佳が、白磁のカップを静かに置いた。
カチン。
陶器が硬い大理石の表面に触れる、微かな、だが確かな音。
カップの縁から立ち昇る薄い湯気が、彼女の顔の輪郭を柔らかく揺らしている。 彼女はエプロンのポケットに手を滑らせ、二枚の小さな紙片を取り出した。
桜色の、硬い上質紙。 テーブルの大理石の上を滑るようにして、私の手元に一枚が差し出される。 春の日帰り旅行の切符。
私は右手の人差し指と親指で、その桜色の紙片の縁を摘み上げた。
スッ。
指の腹が紙の鋭い断面をなぞる。
スッ、スッ。
乾燥した皮膚が紙の繊維と擦れ合い、微小な摩擦音が鳴る。
スッ、スッ。
私はなぜ、わざわざ貴重な休日を割いて、彼女と共にこの薄っぺらい紙片が示す目的地へ赴こうとしているのか。 家庭の平穏への貢献。 妻への純粋な労い。 社会的に成功した夫として、健全で完璧な家庭を築き上げるという理性的な責務。 ……そうだ、対外的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
カチン。
由佳が自らのカップをソーサーに戻す硬質な陶器の音と、珈琲の焦げたような強い苦味が、ゼリー状の不快な塊となって鼻腔を深く突き刺し、思考の糸を無遠慮に焼き切った。
妻への純粋な労いなど、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの足利の蔵の底で触れた圧倒的な狂気に自分がすでに侵食されているという事実から目を背け、この「無垢な妻」や「平穏な家庭」という記号的な防壁を利用して、自分が安全圏にいる正常な人間だと必死に思い込みたいだけなのだ。 彼女の笑顔とこの桜色の切符を盾にして、自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖と劣等感から逃避しなければ、私自身が音を立てて崩壊してしまいそうだからだ。 己の卑小さを、この春の陽光で無理やり覆い隠そうとしているに過ぎない。
スッ、スッ、スッ。
紙片の縁をなぞる指の速度が勝手に上がる。 印字された黒いインクの微かな凹凸。
それに意識の焦点を合わせるたび、肺の奥底に滞留していた鉄錆の幻臭が、珈琲の苦味に無理やり上書きされていく。 私は左胸のポケットへ、その桜色の切符を音もなく滑り込ませた。
布地越しに伝わる、薄い紙片の硬い感触。
スッ。
と今度は左手の親指が、ポケットの表面の布地を反復して撫でる。
そのリズムに合わせるように、私の右の掌は、スーツの右ポケットの奥深くへと沈み込んでいった。 布地の底。 冷たく、そして滑らかな金属の縁。 亀裂の入った、銀鼠の鑑定用ルーペ。 右手の親指の爪が、ガラスの表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に引っ掛かる。
チッ。
ポケットの奥で、爪とガラスが擦れる微小な音が鳴る。
チッ、チッ。
左胸のポケットの桜色の硬さと、右ポケットの底にある銀鼠の金属の冷気。 二つの異質な温度と質感が、私の身体の左右で完全に独立したまま、重力のように私をこの大理石の空間に固定している。
数時間後。特急列車のグリーン車。
足元から伝わる一定周期のモーターの微振動。 車窓を滑るように流れていく勿忘草色の空と、芽吹き始めた春の山々の緑。 私は革張りのシートに深く背中を預け、左胸のポケットの上から、二本の指で一定のリズムで布地を叩き続けていた。
トントン、トントン。
車内の人工的に乾燥させられた空気が頬を撫でる。 足利へ向かう列車の速度が上がるたび、左胸を叩く指のリズムと、右ポケットの中で爪がガラスを削る摩擦音が鳴る。
チッ、チッ。
その無意味な交差が、胃の腑に広がる恐怖の熱を誤魔化すように、どこまでも続いていた。




