第010幕 ――狂気の封じ込めと泥臭い逃避――
冬の果ての夕暮れ。 東京の中心にそびえ立つ高層マンション。 分厚い防音ガラスの向こう側で、薄墨色の闇が下界の輪郭を音もなく塗り潰していく。
まるで、見えない巨大な掌が都市の鼓動を――いや、そんな比喩はどうでもいい。
室温は二十四度、湿度は五十パーセント。 空調の吹き出し口から、一定の風量で人工的に乾燥させられた風が絶え間なく降り注ぎ、私の皮膚の表面温度を均等に奪っていく。 一気圧・酸素濃度二十一パーセントに固定されたこの空間には、本来ならばいかなる不純物も存在しないはずだった。
しかし、その冷たい微風の奥底には、微小な異物が確実に混入している。 鉄錆の鋭い匂いと、腐りかけた肉の重く甘ったるい悪臭。 足利の蔵で気管支の奥底まで吸い込んでしまったあの気体粒子が、鼻腔の粘膜にじっとりとへばりついて離れないのだ。
数日前に私の右手を灼き焦がした高熱。 壁紙が泥のように蠢いた視覚の残像。 それらが網膜の裏側で、極彩色の光の点となってチカチカと不規則な明滅を繰り返している。
私は右手の掌に残るひきつった火傷の痕を、左手の親指の腹でゆっくりと、執拗になぞり続けた。
ツッ、ツッ。
乾燥した皮膚が擦れ合う、微細な摩擦音。
ツッ、ツッ。
鈍い痛覚の信号が、神経の束を通って脳髄へと送られる。
私はなぜ、手元の革張りの手帳に、再びあの足利へ向かうための予定を書き込もうとしているのか。 歴史に埋もれた偉大な才能を保護し、正当な光の下へ引きずり出すため。 文化の防衛者としての、私の高潔な使命。 ……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。 この圧倒的な狂気を前にしてなお、理性的に管理し、社会的な価値へと変換しようとする、選ばれた人間の合理的な態度。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
カチッ。
漆黒の万年筆のキャップを外した微かな金属音と、インクの鋭い化学臭が、思考の糸をあっさりと断ち切った。
使命など、とうに破綻した言葉遊びに過ぎない。 本当は、あの蔵の底で触れた圧倒的な狂気にすでに自分が飲み込まれているという事実から目を背け、盤石な防音ガラスに囲まれたこの安全圏から、あの男をスケジュールと数字で縛り上げて見下ろしたいだけなのだ。 自らの奥底で暴走を始めた得体の知れない劣等感と恐怖を、このインクの染みと計画で塗り潰さなければ、私自身が崩壊してしまいそうだからだ。
同時に、私は万年筆の冷たい軸を火照った右手の指の腹に深く食い込ませていた。 火傷の引き攣りが指の関節を微かに硬直させる。 ペン先を、真っ白な紙の繊維へと突き立てる。
カリッ、カリッ、カリッ。
硬いペン先が紙の表面を削る音が、静まり返った部屋に反響する。 「足利行き」。 インクが紙に染み込み、黒々とした染みを形成していく。 ペンを走らせるたび、右手の火傷の痕がズキリ、ズキリと脈打つ。
その局所的な痛みに意識の焦点を絞り込むことで、鼻腔にこびりつく腐肉の幻臭から逃れようとする。 桁の多い数字の羅列が、インクの酸の匂いと共に脳髄の隙間を埋め尽くしていく。
手帳の傍らには、銀鼠の金属塊が置かれている。 レンズの表面を斜めに亀裂が走る鑑定用ルーペ。 数日前に異常な高熱を放ち、私の肉を焼いたその金属塊。 私は万年筆を置き、火照る右手でその冷え切った金属を包み込んだ。 親指の爪を、微細な亀裂の溝に引っ掛ける。
チッ、チッ。
ガラスと爪が擦れる微小な音。 冷え切った金属の質量が、火傷の熱をじわりと奪っていく。
顔を上げると、薄墨色の夜景を映し出す窓ガラスに、室内の照明を反射した私の顔が薄く二重に張り付いていた。
チッ、チッ、チッ。
爪で亀裂を引っ掻く速度が上がる。 空調の吹き出し口から降り注ぐ風が、首筋の皮膚を撫でていく。 部屋の隅に澱む鉄錆の匂いが、僅かに濃度を増した気がした。
私はルーペを握る手にさらに力を込め、金属の冷たい縁を掌の肉に深く食い込ませながら、窓ガラスに映る硬く引き攣った己の頬の筋肉を見つめ続けた。




