第009幕 ――消毒液の冷気と泥臭い逃避――
冴ゆる午後。 東京の中心にそびえる分厚い防音ガラスの向こう側、白群の空が広がっている。
応接室の空間は、二秒おきに微弱な電子音を立てる空調によって、二十四度の乾燥した風として絶え間なく循環していた。 まるで、無機質な巨大な肺胞が――いや、そんな比喩はどうでもいい。
アルコール消毒液の鋭い化学臭が、鼻腔の粘膜をチリチリと刺激する。
皮膚の表面から急速に水分が奪われ、薄い皮が突っ張るような摩擦が顔全体に張り付いた。 足利の蔵で吸い込んだ、あの生温かい微熱も鉄錆の匂いも、この極度に乾燥した冷気の前では完全に揮発し尽くしているはずだった。
向かいの革張りのソファに真っ直ぐな姿勢で腰を下ろしている男。 新島誠一郎の指先を覆う、白練のシルクの手袋が、マホガニーのテーブルの表面を微かに擦った。
シュッ、シュッ。
布地と木材が擦れ合う乾いた音が、鼓膜の表面を撫でる。
「金田先生の個展の件ですが」 新島の声帯の震えが、冷え切った空気を伝って直接耳の奥へと届く。 「当館として、全面的に許諾し、後援させていただくことに決定いたしました」
私はなぜ、この取り返しのつかない契約を交わそうとしているのか。 歴史に埋もれた偉大な才能を発掘し、正当な光の下へ引きずり出すため。 文化の保護者としての、私の高潔な使命。
……そうだ、社会的な建前としては完璧だ。
その美しい論理の結末を頭の中で組み上げようとした瞬間。
ツーン、と。
鼻腔の奥を突いたアルコール消毒液の鋭い化学臭が、ゼリー状の不快な塊となって思考の糸をあっさりと焼き切った。
文化の保護など、とうに破綻した自己欺瞞に過ぎない。 私はただ、あの蔵の底で私を圧倒した狂気から逃避し、盤石な防音ガラスに囲まれたこの東京という安全圏から、奴を桁の多い数字で縛り上げて見下ろしたいだけなのだ。 自らの奥底にこびりついた得体の知れない恐怖と劣等感を、この薄っぺらい契約書と莫大な資本の力で塗り潰さなければ、私が私自身を保てないからだ。
新島はゆっくりと両手を動かし、漆黒の分厚い革表紙に包まれた契約書を、音もなく私の目の前へと滑らせた。
なめし革の重い匂いと、インクの微かな酸の匂いが、消毒液の化学臭に混じって気管支を塞ぐ。
「会場の確保、メディアへのプロモーション、そして必要な資金援助。すべてバックアップをお約束します」
鼓膜を叩くその音声波形と同時に、私は右手の親指をスーツのポケットの底へ深く滑り込ませた。
冷たく滑らかな金属の縁。 銀鼠の鑑定用ルーペ。 その表面を斜めに走る微細な亀裂の溝に、爪の先を強く引っ掛ける。
チッ、チッ。
右手の掌の奥底で、皮膚の下の肉がじくりと熱を帯びて脈打った。 昨夜、このルーペが発した異常な高熱に焼かれた火傷の痕。 焼け焦げた神経の末端が、心拍と同じリズムでズキリ、ズキリと鈍い痛覚の信号を脳髄へと送り込み続けている。
チッ、チッ。
親指の爪が亀裂を引っ掻く速度が勝手に上がる。 火傷の熱と、ルーペの冷気。 局所的な痛覚が、脳の処理回路を物理的な痛みへと強制的に切り替えていく。
私はスーツの内ポケットから、漆黒の万年筆を引き抜いた。 右手の指関節が火傷の引き攣りで微かに硬直する。 私は親指の腹に力を込め、その痛覚をペンの軸へと直接押し付けた。
ジリッ、と。
皮膚の下で神経が悲鳴を上げる。
万年筆のキャップを外す。 微かなクリック音。 ペン先を、契約書の白い紙面へと突き立てる。 インクが紙の繊維に染み込んでいく。
カリ、カリ、カリ。
硬いペン先が紙の表面を削る音が、消毒液の匂いが充満する応接室に連続して響き渡った。
右手の掌の熱がピークに達し、ジンジンとした痺れに変わっていく。 私は、新島の白練の手袋がマホガニーのテーブルの上で静かに静止しているのを視界の端に捉えながら、ひたすらにペン先を動かし続けた。 空調の吹き出し口から降り注ぐ二十四度の冷風が、私の頬の表面の熱を均等に奪い去っていく。
カリ、カリ。
紙を削るその微細な振動だけが、恐れとエゴにまみれた今の私を、この部屋の椅子に辛うじて繋ぎ止めている唯一の物理的な運動だった。




