夢の中
カチリ、と鍵の音がした
扉の向こうで何かが閉じた音
それは屋敷ではよくある音なのに、今日のそれは氷のように冷たかった
エレオノールは、まだ重いまぶたをこじ開けた
(……眠らされて、いましたわ)
兄の気配がまだ部屋に残っている。ワインと、血の匂いが混ざった香り
その香りが、鳥籠の格子みたいに彼女を取り囲む
「エレン……」
会いたい、話をしたい、そんな想いが募る
でも、今の自分は囚われの小夜鳴鳥
(助けに来て下さいませ………)
そんなことあるはずないのに、願わずにはいられない
彼女はゆっくりとベッドから降りようとした
足先が床に触れる。冷たい
ふらりと膝が折れそうになるのを、ベッドの縁に捕まって耐える
(まだ、催眠が解けていない……)
命令の余韻
眠れ、忘れろーーその言葉の鎖は、目覚めた後も食い込んで離れない
エレオノールは扉へ向かい、ドアノブを握った
ーー回らない
外側から鍵がかけられている
「……お兄様………」
小さく呼んでみる
……返事はない
エレオノールは扉に額を預けた
冷たさが皮膚に染みる
涙が一滴、床に落ちた
(わたくしは、どこまでも籠の鳥なのかしら……)
鳥籠の中で美しく育つこと
兄に愛されること
兄の言う“安全”を信じること
ーーそれを守っていれば、傷つかずに済む。でも、傷つかない代わりに、何も感じなくなる
2回目の夜、エレンの隣で海を見た
冷たい潮風が頰を刺して、でもお互いに笑いあった
胸は火のように熱くなった。頰はイチゴのように赤くなった
(………あれが“生きる”ってこと?)
知らなかった
鳥籠の中にいる限り、知らなくてよかった
けれど1度知ってしまったら、もう戻れない
ふいに、頭の奥がじくりと痛んだ
痛みはいつも、記憶の縫い目から始まる
けれど今日の痛みは、今までと違った
縫い目の糸がぶちぶちとちぎれる、そんな痛み
エレオノールはベッドに戻り、枕に顔を埋めた
痛い、苦しい、怖い
でもーー思い出したい
(そう、思い出したいのです)
エレオノールは自分の意思で目を閉じる
思い出したら、何かが壊れるかもしれない
それでもーー胸の奥の空洞を、埋めたい
落ちるように意識が沈んでいく
けれど沈み切る前、誰かがそっと手を握ってくれた気がした
(……エレン?)
ーー違う
もっと幼い手
小さくて、冷たくて、震えている手
ーーーーーーー
夢の中で、屋敷の庭が広がっていた
銀の月の夜。木々の影は深く、夜風は冷たい
けれど、エレオノールは知っている
この庭は怖くない
この庭は、何かが始まった場所
小さな足音
綺麗なワンピース
自分の手には、銀のトレイ
カップケーキの甘い香り
ーー幼い頃の自分が、笑っている
(……おやつ)
記憶の断片は、驚くほど鮮明だった
舌に甘さが蘇る。たっぷりの生クリームが揺れ、イチゴの赤は宝石みたいに光る
そしてーー庭の向こう
薄汚れた少年がいた
泥に汚れた頰、ボロボロの服、小刻みに震える肩
目には警戒の色が浮かぶ
エレオノールは夢の中で、息をのむ
胸の奥がキュッと鳴いた
「あなた……寒いでしょう?お茶でもいかが?」
幼い自分が言う
少年は怯えた獣のように身を強張らせた
けれど逃げない
グ、グウゥゥゥ〜
夜の山に、間の抜けた音が鳴る
あまりに小さく、あまりに正直な音で
幼い自分は笑って、カップケーキを差し出した
少年は、恐る恐るとだがカップケーキを受け取った
ケーキをひとくち食べた少年の目から、涙がこぼれ落ちる
幼い自分は白いハンカチを取り出した
ーー白いハンカチ
夢の中の自分が、少年の涙を拭う
冷えた肌。痩せた頬骨
少年の目が丸くなる
「なら、このハンカチとおやつ、あなたに差し上げますわ!」
少年は震える声で言う
「いいの?こんなきれいなの……」
「ええ!」
幼い自分が笑う
「ええと、わたくしはエレオノール。あなたのお名前は?」
「なまえ……?」
「ええ」
少年は迷い、やがて小さく言った
「えっと……ぼくは紫苑。森景……紫苑」
「紫苑……。とても綺麗な名前ね」
その名が、今のエレオノールの胸を貫いた
記憶の縫い目が裂けるほど痛いのに、息ができるほど嬉しい
(紫苑………!)
名前がちゃんと形になった
夢の中の少年ーー紫苑は、カップケーキを抱きしめながら、こちらを見ている
怯えているのに、どこか信じてくれている目
幼いエレオノールは約束する
「わたくし、また明日ここに来るわ。一緒におやつを食べましょう?」
少年はビックリしたように固まる
そして、しばらくしてからコクンと頷いた
「また明日会いましょうね、紫苑!」
胸の空洞が、音を立てて埋まり始める
欠けたものが戻ってくるーー怖いほどの勢いで
「エレオノール」
低い声が落ちる
夢の庭が凍りつく
オーギュストの紅い目が、闇の中で燃える
夢の中の自分が、紫苑を庇おうとする
「不要な夢を取り除こう」
兄の命令により、1つずつ1つずつ、記憶が剥ぎ取られていく
(やめて!)
叫んだつもりなのに声が出ない
紫苑が叫ぶ
「やめて……!おねがい、エレオノールをくるしめないで……!」
その声に、胸が裂ける
胸の奥の空洞は、もう完璧に埋まっていた
そしてーー
夢は暗転した
ーーーーーーー
エレオノールは飛び起きた
胸が上下する。普段はゆるい鼓動がうるさいほど速い
枕が濡れていたーー涙で
(思い出しましたわ……!)
森、おやつ、紫苑、白いハンカチ
そして、奪われた記憶
今まで空洞だった部分が、痛みと熱で満ちている
それは苦しいけど、これが自分だ。失っていた、自分
エレオノールはベッドから降り、ふらつく足で窓へ向かった
外は夜。外は闇
その闇の中に、1つだけ確かな気配がある
(………紫苑)
ドアからは外に出られない
ならーー窓だ
エレオノールは震える手でシーツを結び始めた
指先が震える。力が入らない
ーーでも、行かなきゃ
胸の奥で幼い自分が言う
「わたくし、また明日ここに来るわ」
あの約束を、今度こそ守らなきゃ
窓を開けると、夜風が頰を刺す
シーツを窓枠に結び、外へ身を乗り出す
高くて、怖い
でもーー怖さより、会いたいが勝つ
「紫苑………」
小さく名前を呼んだ瞬間、庭で何かが動いた
影が1つ、駆け寄ってくる
紫苑だった
エレオノールの視界が歪む
夢の中の少年では無い。大人になった紫苑
(見つけましたわ)
彼女はシーツを伝い、壁を降りる
途中で足を滑らせ、体が宙に浮く
その瞬間、紫苑が走り込んで両腕で受け止めた
「エレオノール……!」
抱きしめられる
ーー温かい、怖いほど温かい
エレオノールは震える声で言った
「……紫苑。わたくし、思い出しましたの。あなたの名前も、おやつも、全部………」
紫苑の喉が鳴った
彼はエレオノールの頰に触れ、泣きそうな顔で言った
「………遅いよ」
「ごめんなさい………」
「いい。……生きててくれて、よかった」
その言葉で、エレオノールの涙が溢れた
鳥籠の中で凍っていた何かが、音を立てて溶けていく
ーーだが、次の瞬間
屋敷の奥で、空気が裂けた
紅い気配
冷たい怒り
オーギュストが、来る
エレオノールは、サッと顔を青ざめさせた
ーーここからが、本当の修羅場




