眠り姫と、蘇る悪夢
屋敷の夜は、いつも同じ
磨き上げられた床、重いカーテン、香の香りーーそして、兄の気配
けれど、最近のエレオノールは、新しい事を次々に知ってしまった
夜の街の匂い、ネオンの光、風の冷たさーーエレンの声
(また、会いたい)
それは恋と呼ぶにはまだ幼い、けれど胸の奥に根をはる熱だった
エレンと話していると、説明できないほどの温かさが胸に滲む
自分の中の空洞が、少しずつ埋まる感覚
彼の笑い方、話し方、こちらを見つめる眼差しーーどれも初めてなのに、懐かしい
そして、夜毎に夢が揺れる
庭、銀の月、甘いおやつ、白いハンカチーーその向こうに誰かがいる
顔は霞んでいるのに、胸の奥だけが強く反応する
“忘れてはいけない何か”
“絶対に手放してはいけない何か”
ーー目覚める度、胸がひどく痛くなる
そして、エレオノールは強く思うのだ
(外に出たい。……会いに行きたい)
ーーーーーーー
抜け出すのは3回目だった
1度目は好奇心、2度目は自分の意思で
そして3度目はーー小さな恋心で
エレオノールは鏡の前で髪をまとめた
長い栗色の髪を丁寧に梳き、結い上げ、乱れないように留める
着替えたのは、ロングスカートのワンピース
上品な紫色だからと言い訳しながら、実際には“エレンに似合う自分”を意識していた
(おかしいですわ……)
こんなに心臓が跳ねるのは、初めてだ
屋敷の中では、心臓はいつも静かだった
鼓動はあるのに、感情が追いつかなかった
ーーそれが今は、うるさいほどに騒いでいる
エレオノールは部屋の扉をそっと開け、廊下へ出た
兄と2人暮らしの屋敷は、異様に静かだ
床を踏む音を殺しながら、階段を降りる
玄関の鍵は、前回抜け出した時に覚えた
指先で金具を探り、カチリと動かす
(……よし)
扉に手をかけた、その瞬間ーー
「エレオノール」
空気がピシリと凍った
首の後ろが冷たくなり、指先から血の気が引いた
ゆっくりと振り返ると。そこには兄が立っていた
夜の闇より濃い影を背負い、紅い目が燃えている
怒りを抑えた声。抑えているのに、鋭い刃のように冷たい声
「お、お兄様……あの………これは………」
言い訳を探すのに、言葉が出ない
喉が渇いて張り付き、唇が震える
オーギュストはこちらに近づいてくる
その足音は静かなのに、圧がある
「どこへ行こうとしている?」
紅い目がエレオノールを貫く
言い訳も嘘も許さない目
エレオノールは答えられなかった
けれど、その沈黙が全てを物語る
オーギュストの目が鋭く光った
「外出は禁じたはずだ」
声が低くなる
怒りが、深いところで煮えたぎっている
「お前にふさわしくない場所へ、また行くつもりか」
“また”ーーもう知っているという言葉
兄は、2回目の外出の時点で気づいていたのかもしれない
わざと泳がせていたのか。見張っていたのかーーいずれにせよ、彼は全てを掌握している
いつものエレオノールなら、兄に従って部屋に戻っただろう
でも、エレオノールは胸を張った
怖いけれど、ここで引き返したくなかった
「ふさわしくないなんて……!」
声が思ったより強く出た
自分でも驚いたーーこの屋敷で、兄に逆らう声を出したことがあっただろうか
「わたくしは、ただ外の世界を見てみたいだけですわ」
オーギュストの眉が僅かに動く
妹の口から“外の世界”という言葉が出るのが許せないのだろう
「人間の欲望が渦巻く場所に、純血の吸血鬼が立ち入るなどーー許されるものか!」
エレオノールは唇を噛んだ
そして、さらに踏み込んだ
「お兄様、私は籠の鳥ではありません」
言った瞬間、胸が熱くなる
もう止まれない
「外で羽ばたいてもいいではありませんか」
オーギュストの瞳が、ひどく揺れた
怒りの奥に、何か違う感情がある
でも、その感情が何なのかは、エレオノールには分からない
「……羽ばたく?」
オーギュストは低く笑った
「お前はまだ、何も知らない。人間の街がどれほど汚れているか、どれほど残酷かーー」
「知りたいのです」
エレオノールは遮った
自分でも信じられないほど、声がまっすぐだった
その言葉で、兄の表情が一瞬だけ歪んだ。しかし、すぐにいつもの表情に戻る
オーギュストの視線が、エレオノールの服装ーー整えられた髪、紫色のワンピースーーに落ちる
そして、冷たい声が落ちた
「………あの男か」
その一言で、エレオノールの心臓が跳ねた
胸の奥を見透かされたような感覚
“あの男”という言い方に、兄の嫌悪と嫉妬が混じっている
「……違います」
反射的に否定した
半分は嘘。半分は本当
「ただ外を見たい」気持ちも本当にある
でも、その中で「エレンに会いたい」という思いも勿論ある
「……今日から外出は禁止だ」
その言葉が、雷のように落ちる
「屋敷から一歩も出ることは許さない」
エレオノールの喉が詰まる
前よりも厳しい、前よりも強いーーつまり兄は“確信”したのだ
妹が外に惹かれていると
誰かに、心奪われていると
「……お兄様」
エレオノールは震える声で呼んだ
今までなら、この時点で従っていた
けれど、今は胸の奥で恐怖が芽生える
外に出られなくなる恐怖
エレンに会えなくなる恐怖
そして、“大切な何か”がまた遠のく恐怖
「わたくしはーー」
いいかけた瞬間、オーギュストの瞳が妖しく光った
「ーー眠れ」
短い命令。兄の吸血鬼としての能力
エレオノールの視界が揺れた
膝から力が抜ける、床が近づく
(いや………!)
抵抗しようとした。でも抵抗できない
身体は命令に従い、意識が沈む
エレオノールが倒れながら最後に見たのは、兄の顔
ーー怒りと、恐怖と、愛と、壊れそうなものが混じった顔
(……どうして…………)
思考はそこで途切れ、闇が落ちる
ーーーーーーー
エレオノールの身体は軽かった
眠らされた妹は、まるで人形のように無抵抗だ
オーギュストはエレオノールを抱き上げ、階段を上がった
その動きは乱暴ではない、むしろ丁寧だった
丁寧だからこそ、余計に残酷だった
「……………」
妹をベッドに寝かせる
髪が乱れないように整え、布団をかける
その手つきだけは、兄の愛だった
ーーだが、愛はすぐに鎖となる
オーギュストは部屋を出ると、扉を閉める。そして外側から鍵をかけた
ーーカチリ
その音は、鳥籠が閉まる音
「……外は危険だ。俺だけを見ていろ」
呟いた言葉は、誰に言い聞かせているのかわからない
妹にか、自分にか
「………あの男」
唇から漏れる名もない呟き
“エレン”とは呼べない。呼びたくない
妹の世界に入り込んだ異物
自分の鳥籠を揺らす風
オーギュストは目を閉じて深く息を吐いた
「……二度と、奪わせない」
ーーーーーーー
同じ夜。「Nightingale」の照明はいつも通り眩しく、グラスが鳴り、笑い声が弾けていた
しかし、エレンーー紫苑の世界だけは色を失っていた
ーー約束の時間を過ぎても、エレオノールが来ない
(……まただ)
胸の奥が冷える
過去の夜が、フラッシュバックする
虚ろな紅い目、心の痛み、取り残された自分
(俺は……また奪われるのか……)
紫苑の指先が震えた
グラスを持つ手が、僅かにこわばる
笑顔を作るのが難しい
櫻井は、遠くからチラリと紫苑を見た
何も言わない。けれど、その視線が「落ち着け」と言っている
紫苑は歯を食いしばり、無理やり笑顔を作った
客の前では、エレンで居なければならない
けれど、胸の奥では泣きそうだった
(エレオノール……)
彼女が閉じ込められた事を、紫苑はまだ知らない
ただ、最悪の未来だけは予感できていた
鳥籠が閉まった
鍵がかかった
ーーそして、歌声が遠ざかる
そんな感覚が、紫苑の心臓を締め付けていた




