人気ホスト、爆誕
櫻井に拾われた紫苑は、ホストクラブで裏方の仕事をこなすようになった
掃除、皿洗い、買い出し、ゴミ捨て、灰皿の片付け……
手は荒れた、指先はひび割れた
でも、あのボロアパートにいた時よりは、痛くない
(これ、ちゃんと生きている痛みだ)
そう思い、紫苑は人一倍働いた
しかし、ある日、紫苑は皿を割ってしまう
怒鳴られる、叩かれる、そう思って身構えた
「ご、ごめんなさい」
紫苑は衝撃に備え、ギュッと目を閉じた
「怪我してねぇか」
櫻井は紫苑の心配をするだけだった
紫苑が恐る恐る顔を上げると、櫻井は破れた破片を片付けながら、ぶっきらぼうに言う
「失敗は誰でもするもんだ。皿はまた買えば良い。気にするな」
「あ、ありがとう、ございます」
たどたどしい敬語を使いながら、紫苑はお礼を言った
櫻井は紫苑を学校にも通わせた
制服を用意し、教科書を揃えて、ランドセルも買ってくれた
「なんで、ここまで」
櫻井は煙草を咥えたまま笑う
「「普通の幸せ」を知らねぇまま大人になると、ろくなことにならねぇからな」
ーー普通の幸せ
朝起きて、「おはよう」と言う
制服を着て、学校へ行く
友達と別れる時、「また明日」と言う
帰ってきたら、温かいご飯がある
紫苑にとって、その全てが夢みたいだった
そんな暮らしに最初は涙を零した。櫻井は、何も言わずそばにいてくれた
(………温かい)
それでも、紫苑の世界は完全には色付かなかった
夜になると、鉛が入ったように胸が重くなる
小夜鳴鳥が刺繍された白いハンカチを出して、柔らかい布に触れる
丁寧に洗っても、エレオノールの香りが残ってる気がする
お菓子の甘さ、紅茶の湯気、朗読の声
そしてーー名前
(エレオノール)
あの美しい少女の名前を、何度も何度も繰り返す
自分だけは、忘れないようにーー
ーー時は流れ、紫苑は成長した
背は伸び、痩せていた身体には筋肉がつき、顔つきも整っていく
鏡の中の自分が、いつの間にか美しい青年になっている事に、紫苑は戸惑った
「おい、あのガキ、顔綺麗じゃね?」
「なんて言うんだろ、影のある美しさだよな」
「育ったら絶対売れる」
「櫻井さん、囲ってんの?」
冗談交じりの高評価が飛ぶくらいには、周囲の目も変わった
事実、紫苑は美しかった
艶のある黒髪、憂いを帯びた黒い目、雪のように白い肌
まつげの影さえ、計算された芸術品のようだった
ーー櫻井に拾われてから13年後、紫苑は20歳になった
閉店後の夜、紫苑は櫻井から呼び出された
「座れ」
カウンター席に座るよう命じられ、紫苑は背筋を伸ばした
櫻井は煙草を吸いながら話し始める
「お前、ホストになるつもりはないか?」
「え……」
思いがけない提案に、言葉が詰まる
「顔は綺麗だし、頭も悪くねぇ。接客はこれから叩き込んでやる」
「で、でも………」
胸の奥にくすぶる思いを言葉にしようと、紫苑は視線を彷徨わせる
しかし、櫻井は紫苑の心を見透かしたように言った
「わかってる。枕営業はしたくないんだろ」
心の内を言い当てられた紫苑は、彫像のように固まってしまう
「な、何でわかるんですか」
櫻井は、ふっと笑う
「俺が何十年夜の街で生きてると思ってるんだ。お前みたいな目をした奴の1人や2人、見たことがある」
「………」
「お前、忘れられない女がいるだろ」
紫苑の胸が、ドクンと大きく鳴った
ーーどうして、櫻井さんには言ったことないのに
そんな紫苑に構わず、櫻井は続ける
「無理にホストになれとは言わない」
「………」
「お前が決めろ。このまま裏方でもいいし、別の仕事を探してもいい。俺は止めない。ただし、大学だけはちゃんと卒業しろよ」
相変わらずぶっきらぼうな言い方。でも、自由を与えてくれる言葉
紫苑は爪が食い込むほど手を握った
ーー誰かに甘い言葉を囁いて、夢を見せることができるのか?
自問自答しても、答えはすぐにでない
ーーでも、
もう1つの声が、胸の奥に宿る
ーーお金があれば、情報があれば、人脈があれば
ーーエレオノールを、あの鳥籠から連れ出せるかもしれない
(覚えてなくてもいい。もう1回会ってーー次は、彼女と一緒に生きたい)
紫苑の心は決まった
「……やります」
「覚悟は?」
「あります」
「枕はしねぇ、それでも?」
「それでも。……俺は、俺のやり方で上にのし上がります」
それを聞いた櫻井は、満足そうに頷いた
「なら、名前を決めねぇとな。さて……」
源氏名。別の自分の名前
夜の世界で生きるための、仮面
「エレン」
無意識のうちに、その言葉が口から溢れでた
「エレン?」
「名前、エレンにします」
エレオノール。世界で1番綺麗な名前
そのまま名乗るのは、怖い
あの繊細な美しさを汚してしまう気がするから
だから、少しだけ形を変える
「……ほう。じゃ、今日からお前はエレンだ」
ーーそして、紫苑は走り出した
最初はぎこちなかった
距離感もわからず、表情も言葉も固い
客のねっとりした視線に、身体がこわばる
身体に触られそうになると、過去の痛みが蘇る
それでも、紫苑は逃げなかった
櫻井の教えに食いつき、物にしていく
媚びない、枕はしない。不器用だけれど、誠実で優しい接客
そんな彼に、惹かれる客も現れる
「闇を抱えた美青年。でも、枕は絶対にしない」
いつしか、そんな噂が勝手に立っていた
紫苑は人気ホストへと駆け上がった
酒と香水の匂いの中で、優しい言葉を囁き、不器用な笑顔を作る
ーーただ1つの目的のために
(エレオノールに、また会いたい。……あの鳥籠から連れ出したい)
接客に疲れた夜は、営業後に白いハンカチを握った
洗濯を繰り返して大分くたびれてきたけれど、捨てられない
色褪せた小夜鳴鳥の刺繍を、指先でなぞる
「………エレオノール………」
そして、紫苑がホストになってから3年
大学も卒業し、ホストの仕事に本腰を入れ始めた頃……
何故か胸の奥がざわつく日が増えた
ーーそれが吉兆か凶兆か、銀の月のみが知っていた




