浅葱のいる生活
浅葱が紫苑達に引き取られて最初の朝。目を覚ました浅葱は、音も立てずに布団から抜け出し、部屋の隅で膝を抱えて座る
先に起きていた紫苑が、そっと声をかける
「……浅葱。おはよう」
浅葱の肩がびくっと跳ねた
そしてすぐに、口が勝手に動く
「ごめんなさい」
紫苑はその一言に、胸の奥がきしんだ
おはように対して謝る子ども
紫苑は息を整え、できるだけ穏やかに言った
「謝らなくていいよ。……でもね、朝起きたら“おはよう”って言うんだ」
「……おは……よう」
「うん。上手」
“上手”と褒めた瞬間、浅葱は戸惑った顔をした
褒められると、次に殴られる気がするーーそんなふうに身構えてしまう
エレオノールがキッチンから顔を出し、柔らかく言った
「浅葱、おはようございます。紅茶はお好きかしら?」
「こうちゃ……?」
「ええ。あなたの心が落ち着くなら、お砂糖も入れますわ」
浅葱は頷きかけて、途中で止まった
「……いい」
「“いい”ではなくて、浅葱の意見を教えて下さいませ」
エレオノールは問い直す。責めない。急がない
浅葱は唇を噛み、やっと小さく言った
「……すこし……のんで、みたい」
その言葉が、浅葱にとって最初の“意見”だった
ーーーーーーー
洗面所の鏡を見たとき、浅葱は視線を逸らした
浅葱にとって鏡は、暴言と一緒にあった
ーー“その目が気持ち悪い”
ーー“変な色”
ーー“親に似てない。気味が悪い”
紫苑は歯ブラシを2本並べた
「これは、浅葱の」
「……ぼくの?」
「そう、こっちは俺のだよ。さあ、歯を磨こう」
浅葱は恐る恐る、歯ブラシに触れた
“自分の物”に触れる手つきが、慣れていない
紫苑は歯磨きを実演してみせる
「こうやって、歯を磨くんだ。血が出ないように優しくね」
浅葱は真似をする
最初は乱暴で、泡が口から垂れた
浅葱は慌てて袖で拭こうとした
紫苑がすぐ言う
「袖じゃなくて、タオルで拭こうね」
「……」
「あ……怒ってないから安心して」
浅葱の目が揺れる
“怒ってない”という確認が必要な子ども
タオルで拭けたら、紫苑は頷いた
「できた」
「……できた……?」
「できた。……何回でも練習すれば、もっと上手くなる」
鏡の前で、紫苑は浅葱の背後に立つ
浅葱は、まだ自分の顔をまともに見られない
エレオノールが、鏡に映る浅葱の目を見つめて言った
「浅葱色……とても美しいですわ。海と空が混ざった色」
浅葱は、鏡を見た。ほんの一瞬だけ
そしてすぐ伏せたけれど、その“一瞬”は、確かな前進だった
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椅子に座ってご飯を食べる事は、浅葱にとっては未知の世界だった
でも、2人は急がない。エレオノールはパンを並べ、スープを注ぎ、浅葱を呼ぶ
「浅葱、ご飯を食べる前には“いただきます”といいましょう」
「……いただきます?」
「そう。目の前の食べ物と、作った人に感謝する言葉ですわ」
浅葱はパンをちぎる
最初はぎゅっと握ってしまい、潰れた
浅葱は固まる。怒られると思ったのだ
「潰れても食べれるから大丈夫。パンはスープに浸しても美味しいよ」
浅葱は半信半疑で浸した
口に入れると、目が丸くなる
「……おいしい」
「そうでしょ?ここでは、美味しいって言っていいからね」
「……おいしい!」
浅葱の声が少しだけ大きくなった
食べ終わりそうな頃、浅葱は皿を見て迷っている
もっと食べたいのに言えない
“欲しがると殴られる”が根っこにある
エレオノールが静かに聞く
「浅葱、おかわりしますか?」
浅葱は反射的に首を振りかけて、止まった
そして、唇を震わせて言う
「……おかわり……しても、いい?」
紫苑は胸がぎゅっとなって、すぐ頷いた
「もちろん。……ちゃんと言えて偉いよ」
浅葱は褒められて戸惑いながらも、少しだけ口元が緩んだ
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紫苑は紙と鉛筆を用意した
「今日は字を覚えようか」
「………じ?」
浅葱はきょとんとし、聞き返す
舞や亮への怒りを抑えながら、紫苑は優しく言った
「……うん。字が書けると、本が読めるようになるよ」
浅葱は、紫苑に教わりながら鉛筆を持つ
最初は握り方が不自然で、指がこわばった
エレオノールが手を添える
「力を抜いて。……そう、羽を持つみたいに」
まずは線
次に丸
次に「あ」
浅葱は何度も失敗し、紙が黒くなる
浅葱は紙を隠した
「……ごめんなさい」
紫苑が即座に首を振る
「謝らないで。……“わからない”って言っていいからね」
「……わからない」
言った瞬間、浅葱の目が恐怖で揺れる
殴られる準備をしている
でも、紫苑は殴らない
代わりに、隣に座って同じ線を引く
「わからないって言えたら、教えるからね……それが普通なんだよ」
「……ふつう」
「そう。ここでは、それが普通」
計算は豆を使った
豆を並べて、足して、減らす
浅葱は少しずつ理解し、成功したときだけ、ほんの小さく目が輝いた
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浅葱は目を合わせるのが苦手だった
目を合わせたら、殴られる。目を合わせたら、怒鳴られる
だから下を向く。消える
紫苑は無理に「目を見ろ」とは言わない
代わりに、短い練習を積む
「俺の鼻を見る」
「……はな」
「そう。鼻なら怖くないでしょ?」
浅葱は紫苑の鼻のあたりを見る
それだけで充分だった
エレオノールは浅葱の頭を撫でる
挨拶も同じ
「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」ーー使い分けを教える
紫苑は言う
「“ごめんなさい”は、悪いことをした時だけ言うんだ」
浅葱は戸惑う
「……じゃあ、ぼく……いつ、ごめんなさい?」
「今は、いらないよ」
浅葱はその言葉を、何度も何度も心の中で反芻した
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浅葱にとって1番難しいのは、眠ることだった
浅葱は夜になると、悪夢にうなされた
眠ると、過去の記憶が蘇る
眠ると、紫苑やエレオノールが消える気がする
そういう恐怖が、浅葱の身体を縛る
だから、2人は浅葱と一緒に眠るようになった
紫苑は浅葱の頭を撫でながら言う
「俺達はここにいるからね。……朝もいるよ」
浅葱は震える息で聞き返す
「……ほんと?」
「ほんと。……約束する」
エレオノールが優しく歌う
鳥籠で歌う華やかな歌ではなく、子守歌みたいな温かい旋律
浅葱の呼吸が少しずつ深くなる
眠りに落ちる直前、浅葱がかすれ声で言った
「……しおん……えれおのーる……」
「なに?」
「……また、あした……いる?」
紫苑は胸がぎゅっとなって、はっきり言った
「いるよ。ずっといる」
浅葱の指が、紫苑の指をぎゅっと掴み、そしてゆっくり緩んだ
浅葱は初めて、“眠ること”を恐怖ではなく、休息として受け入れ始めた
ーー翌朝。浅葱はまた早く起きた
けれど、もう部屋の隅で丸くならない
紫苑が目を覚ますと、浅葱は小さく言う
「……おは、よう」
紫苑は一瞬、喉が詰まった。それでも笑って返事をする
「おはよう。……浅葱」
先に起きていたエレオノールが、紅茶を淹れながら微笑む
「2人とも、おはようございます。……さぁ、朝ごはんにしましょう」
浅葱はまだ怖がりで、まだ傷だらけで、まだ不器用だった
でも、“普通の生活”は、浅葱を責めない
教えてくれる。待ってくれる
そして少しずつ、浅葱の中に根を張っていく
紫苑は思う
普通とは、完璧にできることじゃない
“できなくても大丈夫”が保証されること
――それが、本当の普通だ
リアクションなど頂けると、作者は踊って喜びます
よろしくお願い致します(*´ω`*)




