温かいビーフシチュー
アパートの扉が閉まった瞬間、外の夜がふっと遠のく
街の灯りとざわめきは、もう扉の向こう
エレオノールが昨夜作ったビーフシチューの香りが、紫苑の鼻先をくすぐった
「……ここ、ほんとに……はいっていいの?」
浅葱の声は、か細く震えていた
玄関のたたきに立ったまま、靴を脱ぐことすら躊躇している。恐怖の記憶が、彼を縛っている
紫苑はできるだけ穏やかに言った
「いいんだよ。……ここはもう“浅葱の家”だからね。さぁ入って」
「ぼくの、家……」
浅葱がその言葉を反芻した瞬間、エレオノールがふわりと微笑んだ
「浅葱、靴はここで脱いで揃えましょう。そう、上手ですわ」
褒められることに慣れていない浅葱は、目を瞬かせる
怒られるのを待つ癖が抜けず、肩がまだ硬い。紫苑はその様子に胸が痛んだ。ーー自分も、そうだった
エレオノールはコートを脱ぐと、すぐにキッチンへ向かった
「ご飯を用意しますわ。…寒かったでしょう?」
浅葱は反射的に首を振る
「だいじょうぶ……」
「大丈夫じゃない時に“大丈夫”と言うと、心が疲れてしまいますわ」
エレオノールの声は静かで、しかし否定しない温度を持っていた
浅葱は黙り込む。理解できないのではなく、信じられないのだ
紫苑は浅葱の視線の高さまでしゃがんだ
「……お風呂、入れる?」
浅葱の瞳が揺れた
「……こわい」
その一言に、紫苑の胸の奥がきしむ
「無理に入らなくていい。……今夜は、手だけ洗おう」
紫苑が手洗い場へ連れていくと、浅葱は水音にびくっとした。水の出る音が、何か嫌な記憶を引き出したのだろう
紫苑は水を弱く出し、ゆっくり見せるように言う
「こう。泡を作って、指の間も洗う」
「……」
「痛くしないよ、大丈夫」
浅葱は恐る恐る真似をした
指先が冷たい。小さな手の甲にある無数の傷。爪の間には薄い汚れ
紫苑はそれを見て、目を逸らしそうになった。ーー怒りが湧く。舞と亮に、浅葱をこんな状態にした世界に
だが、今は怒りより先に、やるべきことがある
浅葱に“温かさ”を教えること
そして自分自身にも、“過去は終わった”と教えること
リビングに戻ると、テーブルの上に白い湯気が立っていた
大きめの皿に注がれたビーフシチュー。温かいシチューからは、食欲をそそる香りが漂う
隣には、焼きたてのパンが添えられ、香ばしい香りを放っていた
浅葱が立ち尽くす
美味しそうな香りに誘われて1歩踏み出そうとするのに、直ぐ止まる
「……こ、これ、ぼくの……?」
「ええ、もちろん。野菜もお肉もパンも小さめにしましたわ」
エレオノールが椅子を引いた
「さぁ、座りましょう」
浅葱は椅子に座る動作すらぎこちない
座った途端、背筋をぴんと伸ばして固まる
“食事の席で失敗したら叩かれる”――そういう学習が身体に染みている
紫苑は浅葱の隣に座り、スプーンを取った
「……食べ方、わかる?」
浅葱は首を小さく振る
紫苑は一瞬迷い、笑ってみせた
「大丈夫だよ。最初はわからないのが当たり前だから」
その言葉が浅葱の心に引っかかったのか、浅葱はそっと紫苑を見た
紫苑はスプーンでシチューをすくい、冷まし方を見せる
「こうやって、ふーってして……ひと口」
浅葱は真似をした
震える手でスプーンを口へ運び、ほんの少しだけ舌に乗せる
次の瞬間、浅葱の目が大きく見開かれた
まるで世界がひっくり返ったような顔だった
「お……おい、しい」
声が、震える
浅葱はスプーンを握りしめ、次のシチューを口に運ぶ
「おいしい……おいしいよぉ……!」
浅葱はガツガツとシチューを食べ始めた。目から涙が溢れ出ても、スプーンを決して離さない
その姿はとにかく必死だ。お行儀が良いとは言えないけれど、それよりも大事なことがある
「温かいものを口に入れていいこと。満たされていいこと」を、身体が初めて知ったのだ
エレオノールはそっとナプキンを差し出す
「口元、拭きましょうか」
浅葱はナプキンを受け取ると、慌てて口を拭いた
拭き方もどこか乱暴で、けれどその必死さが愛おしい
紫苑は浅葱の食べる姿を見ながら、胸の奥がざわめいた
自分も、冷たいパンしか知らなかった
腹が鳴っても、食べ物をねだれば殴られた
だから“空腹を感じないふり”を覚えた
浅葱の涙は、紫苑の中の古い痛みを容赦なく掘り返す
――でも、今は違う。違う夜を作れる
食べ終わると瞼が重くなったのか、浅葱はこくりこくりとし始めた
「……ねむい……」
「眠っていいよ。ここは、安心して寝て良い場所だからね」
エレオノールが寝室へ案内し、柔らかい布団を整える
浅葱は布団に触れた瞬間、また固まった
「……これ、ぼく、よごす……」
「汚しても構いませんわ」
エレオノールは穏やかに微笑んだ
「汚れたら、洗えば良いだけですもの」
浅葱は理解できない顔をした
でも、疲れが勝った
布団に潜り込み、紫苑の服の裾を小さく掴む
「……いかない?」
その言葉は命綱みたいだった
紫苑は頷いた
「行かない。……寝るまで、ここにいるよ」
浅葱はようやく、目を閉じた
呼吸が少しずつ深くなる
頬には涙の跡。手にはパンの匂い
眠りに落ちる直前、浅葱がかすれ声で呟いた
「……あったかい……」
その一言が、紫苑の胸を焼いた
浅葱が眠ったあと、2人はリビングへ戻った
窓の外には夜。街灯の光が淡く揺れ、遠くで車の音がする
エレオノールが紅茶を淹れ、紫苑の前に置く
「……紫苑、大丈夫ですか?」
「………うん」
紫苑はカップを握り、熱で指先を確かめる
生きている。ここにいる
「あいつの顔を見ると……全部戻ってくるんだ」
紫苑は重いため息をついた
「怒鳴られた声も、殴られた痛みも、空腹の感覚も……。忘れたかったのに」
エレオノールは紫苑の手の上に、自分の手を重ねた
「忘れなくても構いませんわ」
「……え?」
「痛みは、あなたが悪かった証ではありませんわ。……あなたが生き延びた証です。だから、抱えたままでも大丈夫。でもーー」
エレオノールの紅い瞳が、まっすぐ紫苑を見る
「あなたは、解放されて良いのです。お母様から、過去から。……そして浅葱も」
紫苑は唇を噛んだ
胸の奥で、決意が形になる
逃げるのは終わりだ
舞に怯えたまま生きるのも終わり
浅葱が同じ地獄を繰り返すのも終わり
「……決めた。俺、母親とは決着をつける。……浅葱は、俺たちで守ろう」
エレオノールは微笑んだ
「ええ。家族は血では決まりません。……あなたとわたくしが家族になれたように」
紫苑はカップを置き、静かに頷く
そして、寝室の方を見た
あの小さな子どもは、今夜ようやく温かいものを食べて眠った
――これから先も、美味しいものを食べさせて、温かい布団で寝かせよう。怖くない夜を、積み重ねよう
自分のためでもある。浅葱のためでもある
紫苑は立ち上がり、寝室の扉の前まで行く
そっと開けると、浅葱が小さな寝息を立てていた
紫苑は心の中で誓う
明日から、浅葱に教える
読み書き計算、礼儀作法、そしてーー「愛されていい」ということを
扉を閉めると、エレオノールが背後から囁いた
「紫苑。……あなたは、もう1人ではありません」
「……うん」
紫苑は振り返り、彼女の額に軽く口づけた
その夜、3人の“家”に確かな灯りがともった
冷たい記憶を溶かすほどの、優しくて強い灯りが




