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鳥籠に咲いた愛の花  作者: 朝凪
3章

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解放の始まり

扉のベルが鳴り終わっても、紫苑の耳にはまだ舞の声が残っていた

「邪魔だから」ーーあの言葉が、針みたいに鼓膜に刺さり続ける


鳥籠の店内は、すぐには元の夜に戻らない

客たちは気まずそうに笑い、グラスを持ち上げ、わざと明るい話題を口にする。けれどその“わざとらしさ”が、逆にさっきの異物感を際立たせていた


紫苑はカウンターの横に立ち尽くしていた

浅葱はまだ怯えた目で周囲を見回し、逃げ道を探すように体を固くしている。紫苑が少しでも動けば、びくっと肩が跳ねる。反射だ。叱られる前に縮こまる、殴られる前に固まる。紫苑には痛いほどわかった


(……俺も、こうだった)

「……紫苑」


櫻井がカウンター越しに、低い声で呼んだ

忙しそうに見せながら、その目だけは真剣だった


「奥、使え。落ち着くまで」


紫苑は頷きかけて、喉の奥が詰まった

返事をしようとすると、昔の自分が邪魔をする。舞に植え付けられたトラウマが、今も脳の隅に残っている

そのとき、エレオノールが紫苑の指を軽く握り返した


「大丈夫ですわ。わたくし達を頼って下さいませ」


その言葉は優しいのに、強かった

紫苑は息を吸う。客席のざわめきが少し遠のいた


「……ありがとうございます、櫻井さん。少し、奥を借ります」


櫻井は短く頷いた


「おう」


その途中だった

ふらりと亮が店に入って来た

ーー逃げたはずの男が、戻ってきている

紫苑の背中に冷たいものが走る

浅葱がびくっと震え、紫苑の袖を掴んだ

紫苑は咄嗟に、浅葱を背に庇った

亮は鼻血を拭いながら、店内をきょろきょろ見回している。舞の姿はない

亮はエレオノールを見つけると、ニヤァ…と気持ち悪い笑みを浮かべた

さっき殴られた痛みより、欲が勝つ顔


「……あんた、マジで綺麗だなぁ」


亮は、エレオノールに向かって手を伸ばした


「なぁ、ちょっとだけーー」

「触るな」


低い声が空気を断った。オーギュストだ

亮は一瞬、怯えた。それでも“女に話しかけてるだけ”という理屈で自分を守ろうとする。卑怯者はいつもそうだ


「は?触ってねぇし。声かけてるだけだろ」

「触ろうとした。ーーそれだけで十分だ」


オーギュストの瞳が冷たく光っている

まるで獲物を前にした捕食者の目だ

亮は肩をいからせた


「お前さっきから何なんだよ。俺、こう見えてーー」

「こう見えて何だ。強いのか?」


オーギュストは首を傾げた


「……なら、私を倒してみろ」


その言い方は挑発ではなく、事実確認に近かった

そして、オーギュストが亮の襟首を掴んだ


「う、ぐっーー!」


亮の足が床から浮いた

屈強な男のはずなのに、まるで猫の子みたいに宙吊りになる


「聞こえるか。汚い手で、妹に触れるな」

「ち、ちが……っ、離せ……っ!」


亮の顔が紫色に変わる

オーギュストは少しだけ眉を寄せ、まるで不快な虫を摘まむように、カウンターに押し付けた


「ぐぁっ!」


鈍い音。客たちが悲鳴を飲み込む

紫苑は浅葱の目を塞ごうとした

だが浅葱は、紫苑の背に隠れたまま、恐る恐るその光景を見ていた

殴られることを知っている子どもは、“暴力の予兆”に敏感だ

浅葱の身体が震える


(……これは浅葱に見せるべきじゃない)


紫苑が動こうとしたとき、エレオノールが先に前へ出た

彼女は、オーギュストの袖をそっと掴む


「お兄様。……もう、十分ですわ」

「……エレオノール?」


妹の声に、オーギュストの手が止まる

捕食者が、一瞬で“兄”に戻る


「この虫は、まだ言葉が理解できない」

「理解できなくても構いません。……でも、浅葱の前ですわ」


エレオノールの視線が、紫苑の背後の浅葱に向けられた

浅葱はまた視線を落とし、呼吸が浅くなる。過呼吸の前兆に近い

オーギュストは、舌打ちしそうになって堪えた


「……お前は優しすぎる」

「優しいのは、悪いことではありません」


エレオノールはにっこり笑う

その笑顔は、舞の嫉妬を燃やしたほど美しいのに、浅葱の緊張を少しだけほどいた

“怒られない笑顔”を、浅葱はあまり知らない

オーギュストは亮を放り投げるように離した

亮は床に転がり、咳き込みながら這って起き上がる

目だけがぎらぎらしているが、足が震えている


「……くそっ。覚えてろよ」


その捨て台詞が、あまりにも小さくて情けなくて、紫苑は吐き気がした

弱いものにしか威張れない、情けない人間。舞と同じ

社会では弱いから、家で暴れるしかないのだ

亮が逃げるように去ろうとしたとき、櫻井が静かに言った


「おい。ーー2度と来るな。来たら警察呼ぶ」

「は?警察?何もしてねぇだろ!」


櫻井は笑わない


「店の女に触ろうとした。脅した。客の前で暴れた。十分だ」

「……っ」


亮が言い返せない

“証拠”が残る場所で騒いだことを、ようやく理解した顔だった

亮が消えると、店内の空気が少しずつ戻り始めた

拍手も笑いも再開する

客たちの“夜”は、再び動き出す

だが紫苑の夜だけは、止まったままだった

紫苑は浅葱の肩に手を置き、ゆっくりしゃがんだ


「……大丈夫か?」


浅葱はすぐに頷けない

震えたまま、かすれた声で言う


「……ぼく、……また、……おこられる?」

「怒らないよ」


紫苑は即答した


「浅葱は、悪くない。何も悪くない」


浅葱の瞳が揺れた

“悪くない”という言葉が、理解できないのだ

悪いのが自分だと、ずっと言われてきたから

紫苑は胸の奥が焼けるように痛んだ

舞の言葉が、紫苑だけでなく浅葱にも同じ毒を注いでいる


「……紫苑」


エレオノールが、浅葱の目線の高さまで腰を落とした

そして、まるで歌う前の静けさみたいな声で言う


「浅葱。あなたの目は、とても綺麗ですわ」

「……きれい?」

「ええ。海の色みたい。朝の空みたい。……わたくしは好きです」


浅葱は驚いたように目を丸くする

その瞬間に涙が浮かびそうになって、慌てて目を伏せた

“褒められる”ことに慣れていない子どもは、喜びの扱い方を知らない

紫苑は浅葱の手を握り直した

冷たい。冷たすぎる


「……帰ろうか」


紫苑は言った


「ここは騒がしいから。……家で、温かいもの食べよう」


浅葱が紫苑を見上げる


「……あったかい……もの?」

「うん。……エレオノールが作ってくれるよ」


エレオノールは微笑み、頷いた


「ええ。あなたが望むなら、いくらでも」


“望む”

浅葱はその言葉にも戸惑う

望んでいいのか。欲しがっていいのか

欲しがれば殴られたのに

紫苑は浅葱の小さな背中を軽く撫でた


「望んでいいんだ。……ここでは」


そのとき、オーギュストが横から鼻で笑った


「……お前が“父親”みたいなこと言ってるのは、妙に腹が立つな」

「……うるさい」


紫苑はぶっきらぼうに返した。だが、その返事ができる自分に、紫苑は驚いた

子どもの頃なら、オーギュストみたいな圧のある男に口答えなんてできなかったのに

エレオノールがくすっと笑う


「お兄様。紫苑はいつも立派よ」

「エレオノールがそう言うなら、そうなんだろうな」


オーギュストはグラスを持ち上げ、櫻井に視線を投げた


「店は任せろ。お前達は帰れ」


櫻井は「そうだな」と肩をすくめた

そして紫苑に近づき、低い声で言う


「……紫苑。無理すんな。背負いすぎるな」

「……はい」


紫苑は短く頷く。そして浅葱の手を引き、扉へ向かった

浅葱は一歩遅れ、振り返る

店の灯り、笑い声、エレオノールの香り、櫻井の低い声。そしてーーオーギュストが亮を押さえつけたときの恐怖も、同時に胸に残っている

浅葱は紫苑の背に、そっと隠れるようにくっついた

それは信頼ではなく、生存のための選択

けれど紫苑は、その小さな重みを受け止めた


外は冷えていた

夜風が頬を刺す。浅葱の肩が震える

紫苑は自分のコートを脱ぎ、浅葱の肩にかけた


「……寒いよね」

「…………………」


エレオノールが、浅葱の前に手を差し出した

白い指先が、夜灯りを反射して柔らかく光る


「浅葱。手を貸して欲しいわ」


浅葱は一瞬怯えたが、エレオノールの笑顔に引かれるように、そっと手を出した

エレオノールはその手を優しく握り、紫苑と並んで歩き出す


3人の足音が、静かな夜道に重なる

紫苑は歩きながら、胸の奥でずっと燃えているものを感じていた

舞に対する怒り

亮に対する嫌悪

そして浅葱に対する、痛いほどの共感

――子どもに罪はない

そう頭ではわかっている

けれど舞は、浅葱を“罪”として紫苑に押し付けた


紫苑は歯を食いしばる

決めなければならない

舞から逃げ続けるのは、もう終わりだ

だが、その決意の前に、浅葱が小さな声で言った


「……ぼく、……おかね、かかる?」


紫苑は足を止めかけた


「……なんで?」

「……ぼく、……おかねかかるって……。……いらないって、……すててやるって……」


浅葱の言葉は断片的だった

それでも意味は、痛いほど伝わる

“役に立たなければ捨てられる”という世界を、浅葱は生きてきた

紫苑はしゃがみ、浅葱の目線に合わせる


「子どもを大切に育てるのは、大人の仕事だ。浅葱が気にする事はない」

「…………」

「俺たちは、浅葱のことを捨てたりしない」


浅葱の瞳が揺れ、涙が一滴こぼれた

浅葱は慌てて袖で拭こうとする。泣いたら叱られると思っている

紫苑はその手をそっと止めた


「泣いていい。……泣いていいんだ」


エレオノールが静かに言う


「浅葱。涙は悪いものではありませんわ。……心が生きている証です」


浅葱は唇を噛み、声を殺して泣いた

泣き声を出すことが怖いから

でも、泣ける場所がある

紫苑とエレオノールの間にいる限り、浅葱は壊れなくていい

紫苑は立ち上がり、浅葱の頭を撫でた


――俺たちは、逃げない

――舞からも、亮からも

――浅葱の過去からも


紫苑は再び歩き出した

アパートの灯りへ向かって

浅葱が初めて“安全な夜”を知る場所へ向かって

その背中に、決意の火が灯る


紫苑はまだ気づいていない

この夜が、浅葱だけでなくーー紫苑自身の“母からの解放”の始まりになることを

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