浅葱色の目の男の子
3章の幕開けです!
どうぞ、最後までお付き合いください
浅葱色の目をした少年がいました
その目が気に入らない父親は、少年の事を嫌いました
そんな少年は、優しい紫苑の花と小夜鳴鳥に出会うのです……
ーーーーーーー
紫苑とエレオノールが夫婦になってから、1年はあっという間に過ぎ去った
沢山の人と出会い、沢山の経験をして、沢山の思い出も出来た。そして現在、紫苑はバーテンダーとして、エレオノールは歌姫として、櫻井の経営するバーで働いていた
バー「鳥籠」は、櫻井が作った“大人の隠れ家”だ
内装はシンプルだけれど品がよく、照明は柔らかく店内を照らす。グラスと氷が触れ合う音、香水とアルコールの甘い匂い、誰かの笑い声。カウンターの奥でシェイカーが軽やかに鳴り、時折、ステージから歌声が降ってくる
紫苑は黒髪をまとめ、紅い目を伏せて、指先の感覚で酒と会話の温度を測る
ホストとしての癖は抜けないけれど、今も客の心地よい夜を整えるために、言葉と手を使っていた
「……はい、ギムレットです。今夜の歌に合いますよ」
差し出したグラスに、常連のマダムがうっとりと目を細める
「紫苑くん、ほんとに……あなたの出すお酒って、心がほどけるのよねぇ」
「ほどけたら、最後はちゃんと結び直してください。家まで帰れる程度に」
冗談めかして言うと、マダムは笑って頷いた
「そういうとこがいいのよね。ほら、エレオノールちゃんの歌、始まるわよ」
照明がゆっくり落ちる
ステージに立つエレオノール。白い肌、長い栗色の髪、血のように赤い唇、絶世の美貌。静かな視線が客席を撫で、歌声は甘く心に染み渡る
“歌姫”
その言葉は誇張ではない
そして何よりーー紫苑にとって彼女は、救いだった
紫苑はグラスを磨きながら、ステージの方をちらりと見る
目が合ったわけでもないのに、エレオノールの声の隙間から「大丈夫よ」と囁かれた気がして、胸の奥が温かくなった
(……幸せだ)
エレオノールの実家からほど近い小さなアパートで、2人で暮らす
昼は眠り、夜に働き、帰り道にコンビニの温かい飲み物を2つ買う。たったそれだけのことが、紫苑には奇跡の連続だった
――その奇跡に、汚い指が伸びた
扉のベルが、場違いな音を立てた
空気を割るように、甲高い声が響く
「紫苑、いるぅ?」
紫苑の手が止まった
心臓が、音を立てて跳ねた
知っている。聞きたくもない。忘れたかった声
そこにいたのは、紫苑の生物学上の母親・森景舞だった
派手な化粧と安っぽい香水、年齢に抗うように露出した服。背後には、筋肉を誇示するように腕を組んだ屈強な男。そしてーーその影に隠れるように小さな影が1つ
黒い髪と、浅葱色の目の少年。目の色だけが、妙に澄んでいる
けれど頬や腕には薄い痣、唇の端に切り傷。身体のどこかを庇うように、肩が小さくすぼまっている
紫苑の喉が鳴った。息が詰まる
視界が一瞬、暗くなる
頭の奥から、古くて苦い記憶が引きずり出される
暗い部屋。冷えた床。空腹。怒鳴り声
ーー「邪魔」「金食い虫」「生意気」
(大丈夫。今は違う。ここはバーだ。俺はもう、あの家の子どもじゃない)
紫苑が自分にそう言い聞かせた瞬間、舞が勝ち誇ったように笑った
「久しぶりじゃない。元気そうでよかったぁ。随分いい男になったじゃないのぉ」
「……何の用です?」
声を出した途端、紫苑は自分でも驚くほど低い声が出た
舞は肩をすくめ、後ろの子どもの背を軽く押した
「用はねぇ、これ。ーーこの子、あなたが育てなさいよね」
紫苑の耳が一瞬、遠くなる
「………は?」
舞は平然と続けた
「私、もう無理なの。亮も忙しいしさぁ。子どもって面倒じゃん? ほら、あんたは昔から手がかからなかったしぃ。こういうの得意でしょお?」
“得意”
その言葉が、紫苑の胸を刺した
舞にとって、子どもは世話する対象でも守る存在でもなく、ただの荷物なのだ。都合が悪くなれば押し付け、必要になれば利用する
紫苑は、カウンター越しに浅葱を見た
少年は顔を上げない
その小さな指先が震えている。まるで、怒鳴られる前に自分を縮めているように
――昔の俺だ
紫苑の手が、わずかに震えた
怒りと恐怖と、消えない痛みが混ざり合い、どれがどれだかわからなくなる
「ちょっとぉ、聞いてる?」
舞が派手な爪でカウンターを叩く
「早く返事しなさいよぉ!母親の頼みでしょっ!?」
紫苑の視界の端で、ステージの照明が揺れた
歌が終わったのだ
客席から拍手が起き、空気がほぐれるーーはずだった
けれど次の瞬間、舞の視線がステージの方へ吸い寄せられる
紫苑の嫌な予感は、正確に当たった
舞が、目を見開いた
「は?……なに?あの女」
ステージから降りてくるエレオノール
彼女は客に一礼し、静かにフロアを横切って紫苑のもとへ向かう
舞の顔が歪む。嫉妬が瞬時に燃え上がるのが、紫苑にもわかった
「紫苑、あんた……そんな女と一緒にいんの!?何それ、ムカつくっ!私の息子のくせに……っ!」
その言葉が終わる前に、紫苑の耳元へ柔らかな声が落ちた
「紫苑」
エレオノールが、紫苑の肩にそっと手を置いた
冷たいはずの吸血鬼の手が、その夜だけは温かく感じた
紫苑の胸に詰まっていた息が、少しだけほどける
「……あなたの顔が、少し青白いわ」
「……大丈夫」
本音を言えば、大丈夫じゃない。でも、“大丈夫”と言える相手がいる
それだけで紫苑は、崩れずに立てた
舞はエレオノールを上から下まで舐めるように見た
「……へぇ。紫苑、こういう趣味だったんだぁ?」
紫苑は息を呑んだ。言葉が出ない
「顔はいいじゃん?整形?それとも加工?あぁ、そういう店の子ぉ?」
紫苑の背筋が凍る
舞は人の尊厳を踏むことに、躊躇がない
けれどエレオノールは、こてんと首を傾げるだけだった。その無垢な仕草が、舞の神経をさらに逆撫でする
「……店の、子?」
「そうよ。どうせ男に媚びて生きてるんでしょお?気持ち悪ぅ」
その言葉に、紫苑の中で何かが弾けそうになる
その時だった
奥の席から、グラスが置かれる音がした
「ははっ、それは自己紹介か?」
乾いた笑い声
いつもの席に座ったオーギュストが、ゆっくり立ち上がった
その美貌はエレオノールと同系統だが、彼の場合は冷たさと傲慢さが際立っている
オーギュストは舞を見下ろし、口角だけを上げた
「それにしても、子どもを捨てるとは大した母親だな」
舞が「はぁ?」と眉を吊り上げる
オーギュストは優雅に続けた
「私たちの母親は、命尽きるその時まで私たちの母親だったぞ」
「いきなり何よぉ!?知らないわよ、そんなの!」
「だろうな。貴様の脳は、母親という役職に耐えられる作りではない。お粗末なものだ」
「はぁ!?」
「……それと、私の妹に嫉妬するのはやめろ」
舞が言い返そうとした、その瞬間
オーギュストの声が、凍てついた刃になる
「ーーこの醜女が」
店内が、一瞬で静まり返った
息を呑む音すら聞こえる
舞の頬が、怒りで赤く染まる
「な、なに!?誰が醜女よ!?あんた何様なのよっ!!」
舞が叫ぶ
男が「てめぇ……!」と一歩前に出た。
「ちょっと待てよ。うちの女に向かってーー」
だが、オーギュストは目も向けない。悠々と赤ワインを飲むだけだ
まるで、そこに“人間”がいること自体が些末だというように
「私の妹に近づくな。……それだけだ」
「は?意味わかんねぇ。俺はなぁ……!」
男の言葉が終わる前に、オーギュストが1歩近づいた
ーー圧が違う
男の本能がそれを察し、喉が鳴って言葉が止まる
オーギュストはにこやかに、しかし容赦なく告げた
「とっとと帰れ。お前達が吠える相手は、ここにはいない」
男は歯を食いしばり、舞は紫苑を睨みつける
「紫苑!何なのよぉ、この男!?あんたの知り合いっ!?この私を馬鹿にしてんの!?」
紫苑は、舞の目を見返した
昔なら視線を逸らしていただろう。殴られるのが怖かったから。捨てられるのが怖かったから
けれど、今は違う
自分を抱きしめてくれる人がいる
背中を守る“家族”がいる
紫苑は低く、静かに言った
「……ここは店です。騒ぐなら帰って下さい」
「はぁ!?あんたーーっ!」
舞がカウンターに手をついた瞬間、浅葱がびくっと震えた
その小さな反応が、紫苑の胸に刺さる
怒鳴り声に怯える子ども
殴られる前に固まる身体
それを“見ないふり”だけは、もうできなかった
紫苑は、カウンターの内側から出た
舞と亮に向かってではなく、浅葱に向かった
しゃがみ込み、目線を合わせようとする
浅葱は反射的に後ずさりした
紫苑はそれを追わず、距離を保ったまま、穏やかな声を探す
「……君の名前は?」
浅葱は唇を震わせ、やっと小さく答えた
「……あ、さ……ぎ……」
「浅葱」
紫苑は一度、その名を口の中で転がす
浅葱色の目。澄んだ色
それを嫌った大人がいる
理由はくだらない。いつだってそうだ
「浅葱。……怖かったね。ここは大丈夫だから」
浅葱は、信じられないという顔をした
“怒られない”という言葉を理解できない子どもの目だった
舞が鼻で笑う
「何それ、いい人ぶってさぁ。どうせすぐ飽きるくせに。ーーねぇ紫苑、金は?子ども育てられるくらいには稼いでんでしょお?私、今ピンチなのよ」
紫苑は立ち上がり、舞を見た
「金は出しません。……あなたのためには1円も」
舞が叫ぶ
「何よぉそれっ!恩知らず!私が産んでやったんじゃないの!!」
その言葉に、オーギュストが肩を揺らして笑った
「産んだだけで母親面か。安い女だな」
兄の言葉に、エレオノールも頷いた
舞は顔を真っ赤にし、男の腕を掴む
「亮、行くわよっ!こんな店、気持ち悪い!」
亮と呼ばれた男は、オーギュストの方を見て、怯えを隠すように唾を飲んだ
強い者にしか威張れない、弱い者にしか噛みつけない、情けない男
紫苑はその背中に、浅い軽蔑を向けた
舞は去り際、浅葱を見もしないで言い捨てた
「その子、邪魔だから!ちゃんと面倒見なさいよね!」
扉が閉まり、ベルが鳴った
空気が少しずつ戻ってくる
誰かが小さく息を吐き、櫻井が奥から歩いてきた
「……おい紫苑。大丈夫か」
櫻井の声は、低くて優しい
紫苑は頷こうとして、喉が詰まった。上手く言葉が出ない
代わりに、エレオノールが紫苑の手を握った
「大丈夫ですわ。……わたくしがここにいますから」
オーギュストが鼻で笑う
「エレオノールがいればこいつは死なん。安心しろ」
櫻井がため息をついた
「相変わらずな兄妹だな」
紫苑は浅葱を見る
少年はまだ立ち尽くし、まるで罰を待っているように肩をすぼめていた
紫苑はそっと手を差し出す
浅葱にとって、大人とは怖いもののはずだ。だから紫苑は、できるだけ柔らかく言った
「……俺たちの家に行こうか。今日は……寒いから」
浅葱は一瞬、迷った
けれど、紫苑の手を取らなければ、またどこかへ捨てられるかもしれないーーそんな恐怖が、浅葱の目に浮かぶ
そして恐る恐る、浅葱の小さな指が、紫苑の指先に触れた
その手は驚くほど冷たく、軽い
紫苑の胸に、決意に似た熱が灯る
――俺は、絶対に見捨てない
エレオノールが静かに微笑んだ
オーギュストは「面倒事が増えたな」と言いながら、どこか楽しそうに赤ワインを煽る
櫻井は何も言わず、紫苑の背中に手を置いた。短く、確かな励ましのように
紫苑は浅葱の手を握り直した
浅葱色の目の少年の物語は、ここから始まる
紫苑の花と小夜鳴鳥に出会い、心をほどき、家族になるまでのーー優しい夜の物語
もしリアクション等して頂けると、朝凪は飛び跳ねて喜びます
よろしくお願い致しますm(__)m




