「Nightingale」襲撃事件
その夜の「Nightingale」は、いつもより甘い香水と、氷の溶ける音が多かった。シャンパンタワーが空気をきらめかせ、ホストたちは笑顔の仮面を完璧に貼りつけ、姫たちはいつものように優雅に、残酷に、夜を遊んでいた
ーー扉が乱暴に開くまでは
「ここに吸血鬼がいるんだろ!」
金属が床を叩く音。怒鳴り声。酒と汗と安い正義感の匂い。「吸血鬼は排除すべき」と叫ぶ連中が、まとまった数で乗り込んできた。手にはスタンガンだの、刃物だの、よく分からない護符めいた紙だのが握られている
彼らの目は興奮で濁り、口元には“英雄になれる”という薄気味悪い陶酔が張り付いている
フロアが一瞬で冷えた
ホストクラブは夜の夢だ。夢は、こういう現実の暴力に弱い。だからこそ「Nightingale」は、夢を守るための牙を持っている
カウンター奥でグラスを磨いていた櫻井が、音もなく顔を上げた。その視線だけで場の温度が変わる。笑い声が消え、姫たちの扇子が止まり、ホストたちの背筋が伸びた
その場にいたオーギュストの呼吸が、かすかに乱れた。いつもなら氷のように整っている彼の表情が、ほんの一瞬だけ“過去”に引きずられる。父母を失った夜の匂いが、空気の隙間から忍び込んでくる。血の匂い。叫び。守れなかった悔恨
胸が、上手く膨らまない
(また、奪われる)
そう思った瞬間、視界が狭くなる
過呼吸が喉元まで迫り、彼は無意識にエレオノールの方へ手を伸ばした。ーーけれど、エレオノールもまた、身体が固まっていた。理性より先に本能が怯え、瞳が小さく揺れる。彼女は強い。だが、怖いものは怖い。人間の憎しみは、時に刃より汚い
「エレオノール」
紫苑の声が、二人の間に落ちた。低く、落ち着いていて、なぜか夜をまっすぐに切り開く声。紫苑はゆっくりとエレオノールの前に立つ。盾のように。いや、檻の扉のようにーー開けさせない、という意志で
櫻井が、わざと軽い口調で言った
「うち、予約制なんだけど?名刺、出す?」
過激派の一人が唾を飛ばす
「黙れ!化け物どもを匿う店が商売になるか!」
その瞬間、フロアのホストたちが“仕事の笑顔”を捨てた
それは、客を楽しませるための顔ではない
仲間を守るための顔だ
「お客様ぁ、声が大きいと品が下がりますよ」
「“排除”って言葉、夜の街に似合わないんですけど」
「うちの姫が怖がるんで、帰ってもらえます?」
軽口に見える言葉が、鋭い刃になって飛ぶ。過激派が踏み込もうとした瞬間、ホストの一人が腕を掴み、もう一人が足を払う。綺麗な動きだった。舞踏のように見えるのに、容赦はない
「うわっ!」
床に叩きつけられる音が連鎖する。椅子が倒れ、テーブルが揺れ、シャンパンの泡がきらめきながら散った。過激派は数で押すつもりだったのだろうが、「Nightingale」のホストたちは“夜の戦場”に慣れている。酔客の腕力も、男の嫉妬も、女の刃物も、彼らは現場で見てきた。守るべきものがあるとき、彼らは強い
そして姫たちは、戦わない代わりに“殺す”
「まあ…そんな粗野な言葉、どこで覚えたの?」
「排除って、あなたの人生から教養が排除されてるのでは?」
「その護符、百均?かわいそう」
ネチネチ、丁寧に、笑顔で。社会的に効く毒を、惜しみなく注ぐ。過激派の顔が赤くなり、怒りで突進しようとした男をホストがさらに叩き落とした
「ほらほら、暴れると“銃刀法違反”が目立っちゃいますよ~」
その一言に、櫻井がスマホを掲げる。いつの間にか店の監視カメラの映像が店内モニターに映っていた。証拠は揃う。刃物。スタンガン。脅迫。暴力
「……あ、もう来ますね」
櫻井が耳に当てた指先は、通話中の仕草。警察への連絡は、とっくに済んでいた
過激派は、ようやく自分たちが“詰んだ”ことに気づく。だが遅い。店の外には、既にパトカーのサイレンが近づいている
その間、紫苑はエレオノールの指先を握っていた。強くはない。逃げ道を塞ぐ握り方ではなく、「ここにいる」と確かめる握り方
オーギュストの呼吸はまだ浅い。けれど、紫苑が視線を合わせて短く言う
「今は大丈夫。見て。味方しかいない」
オーギュストはーーそれでも震えかける自分を恥じた。守るべき妹がいるのに、と。だが紫苑は、恥を責めない。代わりに、呼吸を整える手順を低い声で刻む
「吸って。……止めて。吐いて。そう、ゆっくり」
その指示は、音楽のテンポみたいに正確だった。オーギュストは、紫苑の声に合わせて、少しずつ息を取り戻す。エレオノールも彼の背中に手を置いて、震えを分け合うように寄り添った
ーーもう、ふたりぼっちじゃない
警察が踏み込み、過激派は銃刀法違反と不法侵入と脅迫で、あっけなく連行された。ホストたちはネクタイを直し、姫たちはワインを飲み、店は“何事もなかったように”音楽を戻した。夢を守るために、夢の顔に戻るのだ
けれど、夜は終わっていなかった
ーーーーーーー
数日後。マダム・ミヤコのサロンには、上流階級のマダムたちが集まっていた。紅茶の湯気の向こうに笑いが浮かぶ
「ねえ、あの人たちの居た会社、面白いくらい評判が落ちてるわよ」
「取引先が逃げたって。まあ、当然ね」
「ネットワークって便利よね」
“暗躍”という言葉は、彼女たちにとって社交の一部だ。愚行には代償を。品位を壊した者には品位の世界から追放を。マダムたちは手を汚さない。けれど、逃げ道も残さない
そして最も恐ろしい味方が動く
ーー朝凪 鈴
取材魔の売れっ子小説家は、事件を“物語”に変えた。あまりにも面白く、あまりにも痛烈に。店名や人物を巧妙に変えながら、誰が読んでも分かる形で
『吸血鬼排除を叫んだ男たちが、夜の街で“正義”を振り回した結果ーー秒殺』
読者は笑った。SNSは燃えた。メディアは嗅ぎつけた。本人たちは気づいた時には遅い。過激派の愚行は、永遠に“作品”として残ったのだ
彼らはもう外を歩けない
名前を出せば嘲笑される
顔を出せば指をさされる
社会的な死。しかも、長く、しつこい
ーーーーーーー
だが、それでも終わらない
ある夜の深い時間。黄金の鳥籠の廊下で、風がないのに蝋燭の火が揺れた
過激派の誰かが、変死を遂げたとニュースが流れたのは、その直後だった。事故。急病。自殺。世間は好き勝手に理由を作る。だが真相は、誰も知らないし、知ろうともしない
ただ、夜の街では囁かれた
――吸血鬼を害そうとした祟りだ、と
噂は尾ひれをつけ、都市伝説のように広がった。けれど、エレオノールはその話を聞くたび、少しだけ顔を曇らせる。優しい彼女は、敵であっても人の死を望まない
紫苑はそんな彼女を抱きしめ、低く囁く
「君が背負わなくていい。これは、君を守るために生まれた怒りだ」
オーギュストは窓の外を見つめ、やがて静かに言った
「……俺たちは、もう奪われない」
その言葉は誓いだった。過去の血の夜に飲まれかけた呼吸は、今夜、確かに取り戻されている
「Nightingale」には仲間がいる
姫たちがいる
櫻井がいる
マダム・ミヤコがいる
朝凪がいる
そして、紫苑がいる
紫苑は、二人の“カウンセリング”を続けた。特別な技術ではない。ただ、隣にいる。呼吸を整える。怖かったことを言葉にさせ、言葉にできない夜は黙って抱きしめる。仄暗い過去を、愛の手触りで塗り替えていく
黄金の鳥籠は檻でもある。けれど同時に、守りでもある
その夜、エレオノールは紫苑の胸に頬を寄せ、かすかに笑った
「……わたくし、怖かった。でもーー大丈夫でしたわ」
紫苑は彼女の髪に口づけ、オーギュストに視線を向ける。兄はまだ完全には笑えない。けれど、確かに息をしている
「大丈夫にしたんだよ。みんなで」
夜は静かに続いている
“排除”を叫んだ者たちは、もうこの夜に触れない
触れたとしても、夢の側が牙を剥くのだから




