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鳥籠に咲いた愛の花  作者: 朝凪


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3/10

荒地に咲いた紫苑の花

紫苑の世界は、物心ついた時から灰色だった


山の麓にある、ワケあり物件の安いボロアパート

朝でも夜でも、家の中は薄暗い

カーテンは破れ、窓ガラスは汚れ、空気は濁っている

床は冷たく、布団なんてものはない。紫苑が眠るのは、埃っぽい玄関の隅っこだった


母親は紫苑に興味を持たなかった

酒と男に溺れる母親は、紫苑を邪険に扱っていた

温かいご飯なんて用意してくれない

母親が与えるのは、男を買った帰りに買ってきた安いパン

それが、袋に入ったまま放り投げられる


「それ食べときな」


紫苑はすぐさまパンを拾い、袋を開ける

賞味期限すれすれの安いパンは、冷たくて喉に引っかかる

でも、食べなくては生きていけない

冷たいパンを水道水で胃に無理やり流し込む。それが紫苑の知っている「食事」だった

……幼い紫苑の「当たり前」は、痛いこと、冷たいこと、お腹が空いていることだった


誰も、紫苑を助けてくれない

誰も、紫苑を大切にしてくれない


だから、紫苑は余計なことを考えない

空腹も寒さも痛みも、ひたすら「耐える」

それが、紫苑の知っている生き方だった

ーーあの日までは


その夜、母親はまた見知らぬ男を家に連れ込んだ

安い香水と酒の匂いがぷーんと部屋に満ちる

気持ち悪くて吐いてしまいそうだけど、必死にそれを飲み込む


「ほらほら、もっと飲めよ」

「いやぁん、もう飲めないわよぉ」


男の下品な笑い声が、母親の安っぽく媚びた声が、耳にまとわりつく


「……おい、ガキいんのかよ」

「いいのいいの、どーせ寝てるし」


紫苑は寝たふりを決め込む

冷たい床の上で身体を丸め、息を殺す

それでも、男の足音が近づいてくる


「……起きてんじゃん」


視界の端に、下卑た笑みが見えた

次の瞬間、紫苑の身体に衝撃が走った

紫苑は尻餅をついてしまう


ーーけられた


「ガキがいると萎えるんだよ、どっか行っとけ」


そう言うと、男は玄関のドアを閉めて鍵をかけてしまう

寒空の中、紫苑は1人で放り出されてしまった。夜の風が容赦なく皮膚を刺す

ーーいたい、でも、いえにはいたくない

紫苑は裸足のまま、ボロアパートを出て行った


(…………やまのなかなら、しずかかな………)


そして、紫苑は山の中へ入っていった

最もこの山は私有地なのだが、紫苑はそんなこと知らなかった

人の気配がない、木々が風に揺れている

怖いけど、家に戻る方がもっと怖い


(もりなら、だれもいない)


湿った土の上をひたすら歩く

どれくらいそうしていたのか分からない

足の感覚がない、指がかじかむ、頭がぼんやりする

ーーその時、甘い匂いがした


紫苑は顔を上げる

今まで嗅いだことのない、甘くて優しい匂い

視界の先には、白い影が見えた

月明かりに浮かぶ、小さな影


(……おんなのこ?)


月の下に立つ少女は、素晴らしく美しかった

肌は雪のように白く、目は血のように紅い

長い髪は綺麗に結われ、豪奢なワンピースを身にまとう

怖いほど綺麗で、魅入られれば魂を抜かれてしまいそうな美しさ


ーーにげなきゃ


紫苑はそう思った

でも、足が動かない


女の子は、恐る恐る近づいてきた

衣擦れの音ですら、音楽のように美しい


「……どなた?」


鈴を転がしたような、楽器を鳴らしたような、とびきり美しい声がした

紫苑は口をギュッと引き結んだ

答えたら、何かが壊れてしまいそうだから

ーーこの美しい少女が、汚れてしまいそうだから


「あなた……寒いでしょう?お茶でもいかが?」


紫苑は、何を言われたのか直ぐには分からなかった

いつも紫苑に向けられるのは、蔑むような目だけなのに

それなのに、目の前の綺麗な少女は、そんな目をしていない


「…………………」


なんて答えていいか、分からなかった

そんな時だった


グ、グゥゥゥ〜〜


紫苑の腹が小さくなった


「ふふっ」


少女は目を見開きーーそして笑った

彼女は、銀のトレイにのっていたお菓子を紫苑に差し出す


「カップケーキはいかが?」


紫苑の喉が勝手に鳴った

温かそうで、すごく良い匂い

紫苑はカップケーキを受け取ると、一口かじってみた


「……っ、う、あ………」


目から、熱いものが零れ落ちた

それは、次から次へと溢れ出て止まらない


ーーあまくて、あたたかくて、おいしい。こんなの、いままでたべたことない


紫苑はカップケーキを貪った

泣く紫苑を見た少女は、白い布を取り出して紫苑の涙を拭った

小夜鳴鳥の刺繍が入った、綺麗な白いハンカチ


「あ、あの……美味しくありませんでした……?」

「ううん、すごく、おいしかった……」

「まぁ、よかった!……なら、このハンカチとおやつ、あなたに差し上げますわ!」

「いいの?こんなきれいなの……」

「ええ!」


少女は、残りのカップケーキと白いハンカチを紫苑に手渡した


「ええと、わたくしはエレオノール。あなたのお名前は?」

「なまえ……?」

「ええ」


ーー名前

紫苑は、自分の名前が好きじゃなかった

名前を呼ばれる時は、そこに殴られる予感がある

でも、この子はーーエレオノールは違う。何故か分からないけど確信があった


「えっと……ぼくはしおん。森景……紫苑」

「紫苑……。とても綺麗な名前ね」


綺麗なんて、言われたことがない


「わたくし、また明日ここに来るわ。一緒におやつを食べましょう?」

「……いいの?」

「ええ、また明日会いましょうね。紫苑!」

「……うん」


その「うん」は、紫苑にとって生まれて初めての「優しい未来」だった

ーーそれからの数日は、夢みたいだった

紫苑は山に通った

家に帰れば地獄が待っている。殴られるかもしれない、酒を浴びせられるかもしれない

それでも、紫苑は耐えられた

山に行けば、エレオノールが居る

温かいお菓子、熱い紅茶、朗読してくれる絵本ーーそして、とびきりの優しさ

エレオノールが吸血鬼だと知っても怖くなかった

だって、人間である母親の方が、母親が連れ込む男達の方が、よっぽど怖い


「ーー王子様を庇って大怪我を負った吸血鬼の姫。王子様が血を与えると、姫の傷は癒えるのでした」


エレオノールがその一節を読んだ時、紫苑がポツリと言う


「………エレオノールも、ちをのむとキズがなおるの?」

「ええ。吸血鬼は、血を飲むと傷がすぐに治るの。特に…好きな人の血は特別なのですわ」

「すきなひと……」


紫苑はその言葉を繰り返した

きっと、大事なことだから


「じゃあ、エレオノールがケガをしたら、ぼくのちをあげる!」

「紫苑……!」

「だって、エレオノールはいつもくれる。おやつもハンカチも……やさしさも。ぼく、なにもかえせてない」

「返さなくても、誰も怒りませんわ」

「やだ!かえしたい!」

「……では、約束。わたくしが怪我をしたら、紫苑に助けてもらいますわ」

「うん!やくそく!」


約束がどんな意味なのか、紫苑には分からなかった

でも、大切なことだというのは、直ぐにわかった


それから、紫苑は家にいるときも山の匂いを思い出した

服の下に隠した白いハンカチを、そっと触った

エレオノールの声を、姿を、思い出した


(……だいじょうぶ、まだ、だいじょうぶ)


エレオノールのことを思えば、生きていられた


ーーでも、幸せは長くは続かない

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