酒豪姫
キャバレー「Canaria」で、エレオノールはいつの間にか“女神”になっていた
ただ美しいからでは、ない
彼女が来てから店の空気が変わった。嬢たちの背筋が伸び、言葉が整い、客層が上がった
――夜の街で、女たちが自分の尊厳を守れるようになったのだ
だからこそ、彼女は自然と尊敬を受けるようになった
その日も、開店前のレッスンを終え、店内が賑わい始めた頃だった
奥の席から、明らかに不穏な声が聞こえた
「おい、飲めよ。新人だろ?まずは飲め」
「す、すみません……私、あまり強くなくて……」
「ここはそういう店だろ。飲めないなら座るなよ」
新人キャバ嬢ーーまだ笑顔がぎこちなく、言葉も震えている子が、グラスを持つ手を小刻みに揺らしていた
目が泳いでいる。助けを求めているのに、助けを呼ぶ言葉が出ない
エレオノールはその場に遭遇した瞬間、足を止めた
ほんの一秒、状況を測る。そして次の瞬間、迷いなく席へ歩いていった
「こんばんは」
柔らかな声。だが、場を切り替える圧がある
客が振り向き、エレオノールを見て目を細めた
“綺麗な女が来た”というより、“自分の支配が揺らぐものが来た”という目だった
新人嬢が小さく息を呑む
「……先生……」
エレオノールは新人嬢のグラスにそっと手を添え、静かに言った
「無理をする必要はありませんわ」
そして客へ微笑む
「この方は、もう十分頑張っています」
「なんだよ。庇うのか?お前、店の何?」
「ただの客です」
「ただの客が口出すなよ。だったら代わりに飲め」
新人嬢が青ざめる
周囲の嬢たちも固まる
園田が遠くで顔色を変え、スタッフが動こうとする
そしてーー紫苑が席を立ちかけた
だがエレオノールは、紫苑を見ずに静かに言った
「……承知しました」
店内が一瞬、無音になる
紫苑の目が細くなる
(だめだ。危ない。酔った客は何をするかわからない)
しかしエレオノールの表情は揺れなかった
“守る”と決めた顔だった
客が笑う
「よし、飲み比べだ。俺に勝ったら、この新人にはもう何も言わねぇ」
条件が下劣で、勝手で、狡い
紫苑が割って入ろうとした瞬間ーー
エレオノールが、ほんの少しだけ首を振った
「大丈夫です」
その目が言う
“ここは私が片をつける”
紫苑は歯を食いしばり、席の近くに立って彼女から目を離さない。……暴力の匂いがしたら即座に止めれるように
一方、客は勝ったつもりでいた
相手は細い女だ。顔は良いが、体は華奢。酒ですぐ潰れるーーそう信じていた
そう、誰も知らなかった
いや、正確には“知る機会がなかった”のだ
ーーエレオノールが、とてつもない酒豪だということを
最初の1杯はシャンパン
客が勢いよく煽る
エレオノールは、ゆっくりと喉に通して微笑んだ
「美味しいですわ」
その言葉に、嫌な予感が走った
2杯目、3杯目、4杯目
ウイスキー、テキーラ、強めのカクテル
度数が上がるたびに客の頬が赤くなり、目が濁っていく
エレオノールはーー目が澄んだままだった
「おい、なんで平気なんだよ」
「平気ではありません」
エレオノールは微笑む
「ただ、慣れているだけです」
その一言が、客の自尊心を殴った
“慣れている”――つまり、自分より飲んできた人間だと宣告されたのと同じ
客はさらに強い酒を頼む
「これで終わりだ」
エレオノールは頷く
「承知しました」
周囲の嬢たちは、息を止めて見守っていた
新人嬢は涙目で、手を握りしめている
「先生……まさか……」
「まさかじゃない。やる気だよ、あの人」
紫苑は、拳を握りしめる
酔って倒れるなら抱えて帰る
吐いたら背中をさする
――何があっても守る
だがその心配は、次の瞬間に裏切られる
「……お、俺……ちょっと……」
ついに客が、テーブルに突っ伏した
言葉にならない呻き声
そしてそのまま、完全に沈黙
……潰れた
しかもエレオノールは、少しも乱れていない
店内が凍り、次の瞬間に笑いと驚きが広がった
「え……嘘……」
「倒れたの、客の方……?」
「先生、何者なの……?」
エレオノールは、潰れた客の隣で悠々と座り直す
そして、店が用意した“度数高めのワイン”を手に取った
グラスを傾ける所作が、あまりに美しい
まるで、晩餐会に参加する姫君のようだった
「……おかわり、いただけます?」
涼しい顔で言うエレオノールに、スタッフが慌てて頷いた
新人嬢が、震える声で言った
「……先生……すごい……」
エレオノールは優しく微笑む
「あなたが悪いのではありません。飲めないことは罪ではないのです。無理をさせる方が下品ですわ」
その言葉で、新人嬢の目から涙が落ちた
“守ってもらった”だけではない
“価値”を取り戻してもらったのだ
ベテラン嬢は胸の奥が熱くなる
新人嬢は口元を押さえて泣き笑いする
ツンデレ嬢は照れ隠しみたいにそっぽを向く
「……かっこよすぎ……」
嬢たちの心に、決定的な何かが刻まれた
この人は、品位で人を救うだけじゃない
必要なら、酒でも戦える
――女神だ
いや、“姫”だ
酒豪の姫
紫苑は、やっと息を吐いた
ホッとした、というより、心臓が今まで握られていたのを解かれた感じだった
「……無茶しないで」
小声で言うと、エレオノールは可笑しそうに微笑む
「無茶ではありません。わたくし、こういう勝負は得意ですの」
紫苑は言葉を失う
(得意って何……)
そして、なぜか朝凪はーー店の隅でメモを取っていた
涙目で。狂気の筆圧で
「“酒豪姫”……タイトル確定……」
誰も止めない
止めたところで、止まらない
ーー数日後。朝凪は恐ろしい速度で原稿を書き上げた
タイトルは「酒豪姫」
夜の街で女神と呼ばれる姫が、新人を守るために“飲み比べ”を引き受け、男たちの傲慢を美しく砕く物語
読者は笑い、震え、そして泣く
「飲めないことは罪じゃない」
その一文が、接客業界に刺さった
そして何より、ラストシーンが素晴らしい
ーー酔い潰れた男の隣で、姫は度数の高いワインを静かに飲んでいた。夜が彼女を酔わせることはない。酔うのは、彼女を見た人間の心だけだ
朝凪は書き終え、机に突っ伏して呟いた
「……私、またやっちゃった……」
ーーーーーーー
“酒豪姫”の報告がオーギュストの元へ届いた時、彼は珍しく声を出して笑った。
「ははははは!……そうか!エレオノールが酒で勝ったか!」
部下が恐る恐る言う
「……よろしいのですか。妹君がそのような場で……」
オーギュストは笑いながらも、目だけは鋭い
「よろしいに決まっている。それにしても人間は愚かだな。エレオノールは私より酒が強いというのに」
赤ワインを飲みながら、彼は笑みを深くする
「さて……その客は、私が許さぬ」
その一言だけで、夜の街の温度が一段下がった気がした
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こうして「Canaria」には新たな伝説が生まれた
“夜のガヴァネス”が店を育てた
“姫の一日体験”が店を照らした
そしてーー“酒豪姫”が店を守った
嬢たちはさらに背筋を伸ばし、新人は自分を守る言葉を覚え、園田は店を守る覚悟を固めた
紫苑は、エレオノールの隣に立ち続ける
彼女が強いことを、誰より知りながら
それでも――失うのが怖いから
朝凪は、また書く
現実が物語を追い越してくる限り
そして夜の街は今日も、静かに“神話”を増やしていくのだった
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