変わってゆく花 見守る小夜鳴鳥
2人が覚悟を確かめ合った日の夜。2人は寝室に居た
長く引き伸ばせば、恐怖が増えて覚悟が揺らぐ
2人はわかっていた
ーー怖いなら、怖いまま進むしかない
これは共に生きるための夜
鳥籠を壊すための夜
オーギュストは同席しなかった
「俺には見届ける資格がない」と言って、部屋の外に立った
それが彼の償いの形なのだろう
けれど、扉の外に居る気配は確かにあった
……何かあった時、助けに行くために
紫苑はベッドの端に座り、エレオノールを見た
彼女はまっすぐ紫苑を見返す
怖い。でも、逃げない
「……始める?」
「……ええ」
彼女の手には、小ぶりなナイフが握られていた
吸血鬼の肌は白く、薄く、血管が透けて見える
その美しい肌に、エレオノールはナイフを当てようとする
「待って」
紫苑は思わず止めてしまった
エレオノールの手がピタッと止まる
「………最後に」
紫苑は息を吸い、言葉を慎重に選ぶ
言わなければならない。もし、この夜が最期になるなら、この言葉が遺言になる
「ありがとう」
エレオノールの瞳が潤む
「君に会えたから……生きてこられた」
エレオノールは涙をほろりと零す。でも、なんとか笑顔を浮かべた
「わたくしもです」
そしてーー刃を引いた
赤い線が走り、血が滲む
血の匂いが香りたった瞬間、紫苑の喉が鳴った
空腹ではない。本能が、危険を察知する
(………この血は、危険だ)
ーーでも、エレオノールと一緒に生きたい
紫苑は、エレオノールの手首に口を寄せた
冷たい肌に唇が触れる
「………飲んで、下さいませ」
エレオノールが囁く
……その声は、震えている
紫苑は目を閉じた
そして、血を受け入れた
ひとくち、ふたくち
温かい、冷たい
甘い、苦い
矛盾した感覚が、舌に流れ込んでくる
紫苑の喉が動く。血を飲み込む
その瞬間、心臓が強く脈打った
まるで、今まで眠っていた何かが目覚めるように
「………………っ……ぁ!」
紫苑は息を詰め、手でシーツを掴む
体の内側が熱くて、冷たい
熱が一瞬で増殖しているのに、血管が凍え始める
「紫苑………!」
エレオノールが彼の名前を呼ぶ
でも、声が遠い。世界が揺れる。視界の端が白く滲む
(………い…たい………)
痛みが来た。ただの痛みではない
骨が内側から砕け、血が凍え、肉が焼け、神経が引き裂かれる痛み
身体中の全ての細胞が、組み替えられていく痛み
紫苑はうめき声を漏らす。それでも、血を飲んだ
止めれば死ぬ。止めるわけにはいかない
エレオノールの手が紫苑の髪に触れる
震える指先。それでも必死に撫でる。優しく、優しく……
「…ごめんなさい……でも、生きて……」
紫苑は返事ができない
喉が焼ける
手が凍える
舌が痺れる
視界が真っ赤になる
そして、限界がきた
紫苑の体がぐらりと揺れ、意識が沈む
それはただの眠りではない
ーー“変化”のための昏睡だ
エレオノールは紫苑を抱きとめ、ベッドへ寝かせた
「紫苑………紫苑…………」
苦しむ紫苑を見ていると、涙が溢れて止まらない
(わたくしの血が、彼を殺すかもしれない)
それが怖くて仕方がない
それでも、彼女は逃げない
この夜を選んだのは、自分だ
ーーーーーーー
銀の月の夜 黄金の鳥籠
変わってゆく花 見守る小夜鳴鳥
激しく緩く 熱く冷たく
体の中が変わってゆく………
ーーーーーーー
紫苑の意識は、灼熱と極寒の中にあった
熱くてたまらないのに、冷たくて仕方がない
(…………死ぬ………!)
何度もそう思った
その度に、耳元で自分の声がする
ーー死なない。君の隣に戻る
(そうだ、彼女の元に戻らなければ………)
朦朧とする紫苑の前に、幻が現れる
庭、銀の月、おやつ、白いハンカチ。そして、美しい少女
「わたくし、また明日ここに来るわ。一緒におやつを食べましょう?」
幼いエレオノール
あの時の声、あの時の香り、甘いおやつの香り
紫苑はその幻に手を伸ばす
すると幻は溶け、今のエレオノールに変わる
「紫苑……愛していますわ………」
彼女が微笑む
その笑みが、紫苑を引き裂き、同時につなぎとめる
(戻らなきゃ)
紫苑は地獄の苦しみの中で、何度も目を覚ます
細胞が砕けても、また組み上がる
その繰り返しの中で、紫苑はただ1つの願いを抱き続けた
ーー彼女の隣で、夜を生きる
ーーーーーーー
紫苑が眠りに落ちてから、部屋の時間はゆっくり溶けた
窓の外では夜が巡った
エレオノールは眠らなかった。……眠れなかった
紫苑の額に手を当てる。熱い
人間の体温ではない、焼け付くほどの熱
次の瞬間には冷たくなる。氷のように
彼の体の中で何かが変わってゆくのが、触れなくても分かった
(お願い……戻ってきてくださいませ………)
彼女はただ祈った
オーギュストは扉の外にいた
時々、気配が揺れる
中に入ってきたいのに入れないような、焦れた気配
それでも彼は入らない
妹が選んだ夜に、兄として口を挟む資格はない
ーーそう、分かっているから
3日目の夜。紫苑の呼吸が僅かに変わった
呼吸が落ち着き、少しずつ弱くなっていく
その違いに気づいた瞬間、エレオノールの胸が強く鳴った
(………起きる)
不安が、喜びに混ざる
“起きる”ということは“生き延びた”ということ
同時に、“変わってしまった”ということ
エレオノールは紫苑の手を握った
彼の手は、まだ温かい
けれど、少しずつ体温が下がってきている
紫苑のまつげが震え、ゆっくりと目が開いた
目がーー紅い色に変わっている
吸血鬼の、紅い目
「エレオノール……?」
エレオノールは息を呑み、次の瞬間には涙が溢れた
「紫苑………っ!!」
紫苑は起き上がろうとして、体の芯を掴むような痛みに顔を歪めた
まだ変化は終わりきっていない
けれど、彼は彼女に手を伸ばした
「………俺、生きてる?」
目の前の彼女が幻ではないか、確かめたかった
「生きてますわ………!あなた、生きて………!」
紫苑の喉が鳴った
唇がかすかに震える
「………俺は………」
言葉が途切れる
紫苑は自分の手を見た。透き通るように白い
口の中に、牙が生えた感覚がする
爪の先がほんの少しだけ硬く、鋭い
呼吸をしているのに、肺が“空気だけで満たされない”感覚がある
胸の奥が、軋むように渇く
渇きが、痛みと同じようにはっきり存在した
「…喉、が…………」
その一言に、エレオノールの心臓が沈んだ
来るべきものがきた。吸血鬼の、喉の渇き
「紫苑………」
「……だめだ、よね。……今、触ったら………」
その言葉に、エレオノールの胸が締め付けられる
彼の身体は変わった。でも、彼の“優しさ”は変わっていない
エレオノールを傷つけたくないという意思が、まだ彼を支えている
「……大丈夫ですわ」
「大丈夫って………」
「……あなたは、わたくしの隣を選んでくれました。だから、わたくしもあなたを受け入れます」
言いながら、エレオノールは自分の手首を差し出した
血管が透ける白い肌
そこには3日前の傷跡が、薄く残っている
紫苑は息を詰めた
目の奥で葛藤が揺れる
渇きと、理性と、愛と、恐怖
「………怖い」
紫苑は絞り出すように言った
それは弱音ではない、正直な告白だった
「俺が……君を………」
「怖くても、構いませんわ」
エレオノールは微笑んだ
涙を浮かべたままの笑み
それでも、強い笑み
「怖いまま、選びましょう?……わたくしも、怖い。それでも、一緒にいると決めました」
紫苑の喉が鳴る
唇が、手首に近づく
触れる直前、紫苑は一瞬だけ目を閉じた
そして、そっとーー
かぷ、と小さな音
まるでキスのように、血を吸う
エレオノールの身体が微かに震えた
痛みはほとんどない
でも、“生き物に触れられている”という感覚が、皮膚の奥まで広がる
紫苑の喉が動く
一度だけ、ほんの少し
彼はすぐに口を離した
「………大丈夫?」
その問いが、どこまでも紫苑だった
吸血鬼になっても、彼は彼女の痛みを最初に気にする
エレオノールは頷き、手首を押さえながら息を吐いた
「……平気ですわ。あなた、ちゃんと加減ができてます」
紫苑は目を伏せ、震える息を吐いた
渇きが落ち着いたのだろう
けれど、次に顔を上げた時ーー紫苑の目がまっすぐエレオノールを見た
「エレオノール」
「何でしょう?」
「俺は……戻ってこれた?」
その問いには、3日間の地獄が詰まっていた
灼熱と極寒と激痛の中で、何度も幻を見て、何度も死にかけて、何度も彼女の名前を呼び続けた記憶
エレオノールは紫苑の頰に両手を添えた
冷たい頰。でも、その冷たさが愛おしい
「戻ってきましたわ」
紫苑の目から、そっと涙が溢れる
「…よかった……」
言葉がかすれ、息が震える
その震えごと抱きしめたくて、エレオノールは紫苑の額に、自分の額を寄せた
2人の距離が、自然に消える。息が重なる
唇に触れる寸前、紫苑が小さく囁いた
「……もう、離れない」
「……ええ」
そして2人はそっとキスをした
激しいものではない。確かめ合うような、祈るようなキス
鳥籠の中で寂しく囀っていた小夜鳴鳥と、荒地に咲いた紫苑の花が、ようやく同じ夜にたどり着くキス
唇が離れると、エレオノールは涙を拭き、笑った
今度の笑みは、鳥籠の笑みではない
ーー夜の、自由の笑み
そして、歌うように囁いた
「……ようこそ、永遠の夜へ」




