鬼夜叉の目覚め
都の空は連日曇りが続いている。先の戦争以降太陽が出ることは滅多になく、出たとしてもほんの一瞬顔を覗かせる程度だった。そのためか、どんよりとした雰囲気が辺りを漂い重く湿った空気が蔓延ってしまっており、方々から生暖かい風が吹き、土埃をあげ、枯れた葉を転がしながら通り過ぎていく。しかし、この廃落通りには正にお似合いの光景だ。今にも崩れてしまいそうないくつものボロい長屋が並び、所々家なのかも怪しい木材を適当に組み合わせた雨風を凌ぐためだけの謎の小屋まで存在する。ここはかつて栄光を極めて没落した都の要人や花街の花魁、他所からの流れ者にこの廃落通り生まれの者などがひっそりと身を潜めるにはうってつけの場所だった。そんな廃落通りの並びのボロ長屋で刀の手入れをする男がいた。長い白髪を後ろで束ね、前髪で左目を隠した長身で肉付きが良く、この界隈では珍しいほど恵まれた体格の大男だ。しかしながら、自身の刀の手入れは繊細で刃こぼれや曇りの1つも見逃さない。余程愛着があるのだろう。男が自身の刀を眺めていると何かを感じ取ったのか急いで刀を鞘に納めそっと畳の上に置いた。その刹那、長屋の戸がガラリと開き、男がチラリと戸の方に振り返るとそこにたっていた人物に驚き目を見開いた。そこには長身痩躯の黒に全身を包んだ優男が立っていた。黒の長髪を後ろで束ね、顔は目鼻立ちがはっきりとしておりかなり整っている。これは花街の女共が放って置かないだろう。
「お前…何しに来た…?」大男が口を開く。
「それはこちらのセリフです。探しましたぞ、白陽天…いや、兄者。ここで何をしているのですか?」謎の優男は逆に質問で返す。一瞬は驚いた白陽天もすぐに落ち着きを取り戻し優男の方に体を向き直す。そして静かに口を開く。
「俺の質問に答えろ、黒曜天。お前どうしてここが…。」
「それは内密な事項ですね」黒曜天は悪戯にニヤリと口の真ん中に人差し指を立ててそう告げる。
黒曜天というこの優男は、元々同じ師を持つ言わば弟分のようなやつだった。昔から忠誠心が強く何かと俺の後ろを付いて回ってくる可愛いやつだ。先の戦争を終結に導いた四天王の1人だが、その戦争後、何も言わず行方をくらました俺を探していたのだろう。
「ふん、まぁいい」白陽天は諦めた口調で頭を掻いた。
「それよりも兄者、またお会いできて光栄です。」黒曜天はそう言うと片膝を付き頭を垂れた。
「おいおい、その格好からしてお前、城の役人だろう?そんな奴がこんなところでみっともねぇ姿見せんなよ」
「しかし、兄者の手前故…」黒曜天はガバッと勢いよく顔を上げる。
「あぁわかったわかった。お前は相変わらずだな。堅苦しいのはなしだ。とにかく中に入れ。茶ぐらいは出せる」
そう言って白陽天は黒曜天を長屋の奥へ通した。
*
お互い茶を啜り一息付くと白陽天は口を開いた。屋外ではサァーッと木々の葉が揺れる音がしている。
「お前、何か頼み事があってここに来たんじゃないのか?」沈黙を破る白陽天の一言に黒曜天の片眉がピクりと動いた。飲んでいた湯のみを下げ一つ息を吐く。
「さすがは兄者…相変わらず鋭い…」黒曜天は静かに笑みを浮べてそっと呟いた。
「遣いの者ではなく、わざわざお前自身が俺を尋ねてきたんだ。大方、帝直々の命令なのだろう?」
「さすがは兄者、そこまでお見通しとは話が早いですね。その通りです。これは帝直々に兄者への依頼です。」
「このタイミングで俺に…。して内容は?」
「それが…これも帝からで城で話すと…」
今度は白陽天の片眉がピクりと動いた。
「おいおい、まさか…!?」
「ええ、そのまさかです。城まで一緒に来て欲しいのです。」
白陽天は、かぁ〜と天を仰ぎながら片手で顔を覆った。もう二度といくことのないと思っていた都の城に、それも帝のところに赴くことになるとは。
「なんで城にまで行く必要がある。要件があるならばここで話せばいいだろう?」
「帝が、直接話したいそうです。私は今回その為に遣いに出されました。」
白陽天はそういう事ならば断れまいという具合に大きなため息をついた。そして、渋々立ち上がり出発する身支度を始めた。
*
廃落通りから南西に進んだところに鬼邪門という出入口があり、廃落通りの人間が唯一出入りを許されている場所だ。廃落通りも同じく人間界にあるのだがどうも都の人間からは毛嫌いされている。何らかの理由で没落した人間が蔓延る場所なだけに子どもを躾ける時など一度は耳にしたことがある忌み嫌われた町なのだから仕方がない事なのだろうと白陽天は納得した。またこの入口は神幸寺というお寺の敷地内に繋がっている。白陽天が寺の方を見るとこんなに寂れていただろうかと思うほど古ぼけた異様な雰囲気を感じた。だが、しばらく見ていなかったのも事実なので見ない間に廃れたのだろうと思いあまり気にとめなかった。神幸寺の区画を抜けて東宮に出ると人の数が先程とは比べ物にならないくらいに増えた。東宮とは外宮と呼ばれる城の外側の街のことである。言わば商人の街で他にもあと三つ似たような街がそれぞれ存在している。神幸寺も外宮にあたるのだが、そこは外宮で2つしかない主要機関の1つだ。そして、東宮は丁度一年に一度の鬼避祭である鬼楽市が開かれていて大きな賑わいを見せていた。鬼避祭とはその名の通り、鬼等の妖を祓う儀式のようなもので平和を願う行事として戦争後一年に一度開かれるようになった大市なのだ。
「おい、黒曜天。この方向は青龍門から遠ざかっているがそのまま向かわねーのか?」
「兄者、ご自身の格好をお忘れですか?その服装では城はおろか内宮にさえ入れませんよ?」
確かに身支度をしたとはいえ今の白陽天の格好はお世辞にも整った格好とは言えないだろう。ぼろ布と言っては失礼だが、着物とはいえどうも汚らしさだけでなく卑しさまで滲み出てしまっている。廃落通りのボロ長屋に移り住んでからというもの人と会わなくなったせいか、格好というものを全く気にしていなかったことに白陽天は今更ながら気が付いた。当然、一張羅と呼べるような服さえ持っていなかった。そのため、黒曜天が気を利かせて東宮で評判の呉服店へと白陽天を連れてきていたのだ。店の主人は黒曜天を見るなり分かりやすく頭を垂れてヘコヘコしている。白陽天は辺りを見渡し他の着物を見ているとふいに後ろから女性の声がした。
「あなた、見ない顔だねぇ。」白陽天が振り返ると身綺麗な初老の女性がそこに立っていた。恐らくそこの呉服店の女将といったところだろうが、なんだこのばあさん、そしてこの妙な雰囲気は何だ?、と白陽天は訝しんだ。
「あぁ、最近こちらに来たばかりなんだ。」白陽天は覚えた違和感を悟らせまいとそれとなく誤魔化した。そもそも廃落通りから来たなんて言えばこの店から追い出されかねない。ましてやせっかくの服さえ売ってもらえない可能性がある。すると、女将は白陽天を舐め回すように下から上へと見るとニヤリと気味の悪い笑みを浮かべてこう告げた。
「ヒヒヒ。最近、何かと物騒だからねぇ。あなたも気をつけた方がいいよ。」
「ああ、どうも。」
白陽天は女将の妙な牽制にもあっさりと返した。この街の人間はこういうものなのか、はたまたこの奥方が気持ち悪いだけか。どちらにせよ、変に下手に出れば厄介事に巻き込まれそうなのは目に見えていた。その時、丁度白陽天たちの会話を遮るように店主が似合いそうな服を持ってきた。それに着替えていると女将はいつの間にか店の奥に消えていた。勘定を終えて外にでる。先程までとは見違えるぐらいの格好に思わず黒曜天も目を輝かせた。
「兄者、見違えましたぞ。昔のお姿を思い出します。」
「よせよ。褒めたって屁と糞ぐらいしかでねぇぞ。」
「その一言で台無しです。勘定…私へのツケにしますよ。」
「冗談だよ。本気にするなって(笑)」
白陽天は陽気に笑うと黒曜天はため息をしつつ感情をして店を後にした。そして二人は賑わう大通りを横断しながら共に内宮の入り口にあたる青龍門に向かった。
*
青龍門は内宮に続く四つの門のうち、東側の入口だ。ここからは基本的に身分の高い者しか入れず、それ以外の身分の者が入る場合には入城許可証がいる。許可証自体は外宮四つの関所に行けば手に入るがそれ相応の理由がいるのは想像にかたくないだろう。白陽天が門を潜る時、門番からの鋭い視線を感じたが、警戒されるのは仕方の無いことだろうと白陽天は納得していた。しかし、どうにも嫌な視線には変わりなかった。
そして白陽天たちはそのまま門を抜け青龍通りから中央の城を目指した。内宮は外宮ほどではないが割と広い。城に近づくにつれ、すれ違う下女らしき女達はその場で立ち止まって膝をつきじっと拱手礼をする。洗濯桶を下すもの、買い物途中の笈を下すものと様々がいたが着物の色が異なるのはそれぞれの配属先によって異なるからだろう。ここ青龍通りは玄北園と東龍園を分ける通りだ。それぞれの園は言わば役所のような役割をしておりそれぞれに長を構えた内宮の主要機関だ。玄北園は防衛の要であり新玄組と呼ばれる警察的な役割を持った隊を編成し街の治安維持に従事している。一方で東龍園は建築や勘定方など街の成長と発展を管理する役所だ。資金の管理をする会計係から建造物の管理を担う創造係がいる。そして、それぞれに身の回りの世話係として下女を雇っているというわけだが、下女達は我々が通り過ぎる間、ずっとその姿勢のまま動かない。しかし、こうした礼節を受ける隙間から何やら禍々しい視線を感じて、視線の感じた方をチラリと見やると奥の建物の物陰から数人がこちらを見てヒソヒソと何かを話しているようだった。あれは玄北園の方だが大方、黒曜天とともに現れた白陽天を警戒している新玄組の連中だろうと推測した。面倒くさい展開になることを憂いたが白陽天は、くだらないと言った具合に、ふんっと鼻を鳴らしてそのまま歩を進めた。
白陽天達は漸く蜃禁城へ辿り着いた。城の中に入ると、城内はまるで迷路のように思えた。通路や階段らが幾重にもなり入り組んでいる。ここまで来るとこちらの方向感覚を喪失させる。本来、それが狙いなのだろうがこれは篭城戦になった際に下手に攻め込まれないためだろう。実に難解な造りだがこれらはきっと目に映っているもの全てが幻なのだ。その証拠に…。
ベベン。
琵琶のような音が響いたかと思うといきなり見ていた空間が変わった。白陽天と黒曜天の前に1人の男と女が現れ、男の方は不敵な笑みを浮かべながら胡坐をかき頬杖をついてジッとこちらを見ている。また、正確には周りにも複数人女達がいるが、恐らく城に仕える側近の侍女だろう。広い部屋の壁際に綺麗に整列している。
「ふっ、久しぶりだな白陽天。いや、鬼夜叉よ」中央で頬杖を付いていた男が白陽天の名前を呼んだ。長い口髭と顎髭を生やしているが身なりは整っていて神々しいような独特の雰囲気を放っている。
「その通名はとうに捨てたはずだぞ、黄龍」
白陽天が黄龍と呼ぶこの男は、今の現皇帝だ。皆からは黄帝と呼ばれ、実の名を勾陳、現皇帝としての名を黄龍とし歴代の皇帝がそう呼ばれている。黄龍と呼んで長いため白陽天はそう読んでいた。
「おいおい、我も勾陳という名があるのだがな…」
「お前は現皇帝だろうがよ」
「その辺にしときなさい」黄龍の傍にいる綺麗な女性が二人を窘める。髪が綺麗に結われ月桂樹の花と葉の簪が刺してあり、控えめながら気品高い身なりをしている。
「久々ね。白陽天。元気だったかしら?」徐に口を開いた女性は黄龍の妃、嫘祖妃だ。妃は優しい笑みを浮かべ、妖艶でありながらしとやかさまで併せ持つ美しい女性だ。おまけに碁や将棋といった娯楽も嗜み、政にも関わるまさに才色兼備な御方だった。
「久しぶりだな。嫘祖妃。また一段と綺麗になったんじゃねぇか?」
「ふふ、相変わらずお世辞がうまいのね」嫘祖妃は着物の袖で口元を隠しクスリと笑った。
しかし、このやり取りに周りの侍女達が顔を顰めヒソヒソと何かを耳打ち合っている。それもそうだ。今日いきなり現れた見ず知らずの男が現皇帝とその妃に馴れ馴れしい口をきいているのだから第三者から観ればさぞ失礼に見えるだろうと傍から見ていた黒曜天は思った。それと同時に白陽天はそもそも失礼な人間であるとも思ったが無論口には出していない。
「それで?わざわざ黒曜天までよこして俺に頼みたいことってのはなんだ?」
白陽天の単刀直入な質問に黄龍はふぅーと息を吐いた。表情は変わらないが周りの空気が張り詰めたことに白陽天はいち早く気がついた。建物がミシミシと軋む音が嫌に大きく響く。空気が揺れるような、それでいて呼吸を忘れるような独特な雰囲気を醸し出していた。先程まで何やら話していた侍女達も心無しか表情が硬く背筋も伸びている。
「実はな…、お前に見てもらいたい女がいる」黄龍は、おい、と言葉を発しながら右手を挙げて何かに向けて合図した。すると今度は、ドンと太鼓のような音が響き、また部屋の様子が変わった。暗くて湿っぽい、異様な雰囲気の部屋だ。見るからに、どこかの寝室だろうが奥に目をやると大きな寝床が見え、誰かが仰向けに寝ている。部屋は何かの臭いを隠すように不自然に香が焚かれているのか変な匂いがする。しかし、その中で僅かな異臭が白陽天の鼻を掠めた。あたりは妙に静かで、白陽天がその寝台に向かって歩を進めるとギギギと重たく無機質な音が響いた。寝床には、骸骨かと見間違う程の酷く痩せた女性が仰向けに寝ており、辛いのか呼吸がか細く、心音も弱いように感じた。まさに生気が抜かれているような今にも事切れそうな感じだ。
「この女は?」白陽天が黄龍に問う。
「筆頭侍女の清麗だ。数日前から急に体調を崩し、今はこのありさまだ」筆頭侍女とは侍女を統括する役職な訳だがその頭がこの状態になったことに黄龍を初めとした他の役職持ちは危機を感じていた。また、黄龍の説明が終わると白陽天は清麗をマジマジと見下ろした。通常人間が餓死するにしても短期間でここまでにはならない。まさに異常だ。次に辺りを見渡して、清麗に視線を戻すと、なるほど、臭いの原因はやはりここだったかと気付かされた。
「これは…鬼憑きだな…。」白陽天は小さく呟く。サーっと生暖かい風が足元を掠めたかと思うとまるで粘土のように気持ち悪く足全体に絡みついてくる感覚がその場にいた全員に感じられた。
「やはりか…」
「あぁ、清麗というこの女、僅かだが醜気がする。まず間違いない」白陽天が言う醜気とは妖が漂わせる臭いのことで妖力の強いもの程臭いが濃くなる。しかし、白陽天にはこの醜気もどこか違和感を覚えさせていた。
「これは、鬼憑きではあるが鬼の力を借りた呪術による鬼憑きだ」
「と言うと?」
「鬼の始祖、酒呑童子のような鬼術による鬼縛りの術ではなく、式神を媒体とした簡易的な鬼憑きだということだ。呪術に長けたものが強力な鬼を使役し作り出した陰陽鬼術だ。通常の鬼縛りよりも臭いが薄いのもその為だ」
「おい、それってまさか…」
その可能性は捨てきれないというように白陽天は小さく頷いた。それを見て黄龍はふぅ〜と大きくため息をついて顔を片手で覆った。
「白、今、我とお前が考えていることが事実ならば事は一刻を争うぞ?」
「わかっている。陰陽鬼術は禁術だ。こんなことが出来るのはあの三人しかいないが先の戦争で死んでいる。が、もう1人これが可能か奴がいる。だから、お前もその可能性を視野に入れて俺を呼んだのだろう?」
白陽天は黄龍の目をまじまじと見てそう言った。張り詰めた糸が切れてしまわぬよう二人以外の人間は固唾を飲んで慎重な様子で見守っている。
「とにかくまずはこの女だ。邪気をどうにかする」白陽天はそう言うと髪に隠れていた左眼を露わにした。その瞬間、周りの侍女達を強烈な怖気が襲った。寒くもないのにガタガタとした体の震えと身体から吹き出す冷汗が止まらなかった。動じていないのは黄龍、嫘祖妃、黒曜天くらいだった。その侍女達が怯える白陽天の眼は、白目の部分が赫く、黒目の部分は黄色に黒点が付いているような何とも異形の眼、言ってしまえば鬼の眼のようなものだった。
(やはり、憑いているな)
白陽天の眼には、無数の小鬼が清麗の身体を這い回っていた。目はギョロリと明後日の方向を向き、ケタケタと笑っている姿が映っている。しかし、白陽天は動じることなく、少し長めに息を吐くと小鬼達の動きがピタリと止まり、白陽天をじっと見つめていた。白陽天がニヤリと笑いながらジッと小鬼達を見つめると蛇に睨まれた蛙のように小鬼達は怯えて動かなくなった。そして、小鬼達は青紫色の炎に巻かれながらギャッと短い悲鳴をあげ一斉に消えた。すると、先程まで苦しそうにしていた清麗の顔が穏やかさを取り戻し、呼吸も正常に戻っているようだった。その様子に気づいた侍女達が縛られていた鎖が取れたかのように一斉に清麗に駆け寄った。
「さすがだな、白、実力は衰えていないと見えるな」
「ふん、この程度の術どうってことない」
黄龍と白陽天は互いに笑みを見せていた。いつの間にか周りにまとわりついていた気持ちの悪い雰囲気も小鬼と共に消えており、その場にいる皆が安堵の表情を浮かべていた。しかし、白陽天は複雑な表情をしていた。一度抱いた疑念は消えず何事もなければいいと切に願って止まなかった。