恋人たちの夜
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫、僕も今来たところだから」
「そっかぁ。よかった」
「行こうか」
「うん」
彼女が僕に微笑んだ。僕は彼女の手を取り、歩き出す。付き合って4年もたつというのに、彼女は僕が触れると顔を赤らめる。きっと僕も人のこと言えないのだろうけど。
「楽しみ」
「そうだね」
僕たちは商店街を歩く。この商店街を行った先には大きな広場があって、図書館や教会が建ち並んでいる。街はクリスマスのきらきらとした明かりや飾りで溢れていた。この商店街にはアーケードがなく、建物はすべてレンガ造りだ。僕はそれが気に入っていた。子供の頃、クリスマスイブの日に初めて商店街に来た日のことを今でも覚えている。幼い頃、僕には1人も友達がいなかった。うまく自分の感情を伝えることが出来なかった。毎日下を向き、くまのぬいぐるみを抱き締め、部屋にこもっていた僕が母におつかいを頼まれ、おそるおそる踏み出した外の世界はえも言われぬ美しさに溢れていた。糠星のような暖色の明かりとたくさんの飾りに目を奪われたあの日を僕は忘れないだろう。空から落ちてくる明かりを反射した粉砂糖はイルミネーションのようだった。商店街を抜けた広場には大きなクリスマスツリーがあり、クリスマスイブの夜にはそこで演奏会がある。大人の群れをかき分け聞いた音楽の美しさに僕は心を奪われた。今日は大切な彼女と街が一望できるレストランに行き、プロポーズをすると決めている。
「あれ?」
「ん?」
彼女が歩くのをやめた。
「どうした?」
「あの街灯の下にしゃがみこんでいる子供たち迷子かな?」
彼女はパン屋の近くにある街灯を指さして言った。
「どうしたのだろう」
僕がそう言ったときにはすでに彼女は街灯に向かって歩き出していた。
「どうしたの?」
彼女はしゃがみ込む2人の子供たちに話しかけた。ダウンジャケットとマフラーを身に着けた5歳くらいの女の子と7歳くらいの男の子だった。
「道が分からなくなっちゃったんだ」
「どこへ行きたいの?」
子供たちと同じ目線になるようしゃがみ込んだ彼女が問いかけた。
「演奏会がある広場に行きたいんだ」
「大きなクリスマスツリーのあるところ!」
「じゃあ一緒に行こう」
彼女は子供たちにそう言い、「いいでしょ?」と僕に問いかける。僕がうなずくと彼女は笑顔で子供たちに言った。
「さあ、行こう」
子供たちの手を取り、僕たちは歩き始める。
「僕たちのね、お父さんとお母さんはケーキ屋さんなんだ」
男の子がそう言う。
「そっかぁ。じゃあ今日はとても忙しいんだね」
「そう!だから僕たちだけでコンサートに行くんだ」
男の子はそう言うと、満面の笑みを僕たちに見せてくれた。
「お姉さんとお兄さんは恋人?」
女の子が僕たちに問いかける。
「そうだよ。僕たちは付き合っているんだ」
僕ははっきりと答えた。
「そっかぁ。じゃあお姉さんとお兄さんは今とっても幸せだね」
女の子は僕たちに純粋無垢な笑顔を見せた。
「うん。すごく幸せだよ」
彼女が微笑む。心の奥の奥がぎゅっとなる不思議な感覚に包まれる。僕は彼女に出会ってから不思議な感覚に包まれることが増えた。この白昼夢のような毎日が出来るだけ、少しでも長く続くようにと願っている。彼女にはなんだか恥ずかしくて言えないけれど。こんなことを言ったら笑われるだろうか。それとも、私も同じことを思っているよと言ってくれるだろうか。
「おにーさんは?」
女の子が僕に尋ねる。
「あぁ、すごく幸せだよ」
「わぁお幸せに」
子供たちが無邪気に笑う。その様子を見ている彼女はとても優しい目をしていた。
「さぁ、もうすぐ着くよ」
彼女が子供たちに言う。
「ほんとに!?やったぁ!」
「わぁい楽しみ」
ふふふと彼女が微笑む。
「着いたぞ」
「うわぁツリーおっきい!」
「すごい!」
そう言うと子供たちは走り出した。
「ちょっと待て、また迷子になるぞ」
「危ないよ」
どうやら僕たちの声は届いていないようだ。僕たちは追いかける。
「きゃあ!」
子供たちの悲鳴とともに、パリンと何かが割れたような音が響いた。
僕たちがたどり着いたとき、地面にはガラスの破片が広がっていた。
「どうしてくれるんだよ!」
1人の男性が大声で怒鳴っている。
「あ……ごめんなさい……」
「親はどこにいるんだよ。あぁ!お前らか!?」
男性がものすごい形相で僕と彼女に迫ってくる。
「す、すみません」
僕は謝る。怖い。こういう時はとりあえず謝る。それがいい。
「大切にしていたペンだったのに。付き合っていた彼女からもらったものだったのに」
男性はしゃがみ込んで粉々になったガラスを見つめる。
「ごめんなさい」
「ほんとにごめんなさい」
子供たちの声は震えている。この後はどうしたらいいのだろうか。弁償したら許してもらえるだろうか。
「彼女さんは」
「ん?」
「その付き合っていた彼女さんは今どうされているんですか?」
彼女が尋ねる。
「ちょっと、そんなこと聞くなって」
僕が彼女を止めようとすると、男性が口を開いた。
「きっと今頃、他の男と過ごしているよ。俺のことなんか覚えてないさ」
下を向いた男性は鼻で笑った。
「あなたは」
「んあ?」
「あなたは今もその女性のことが好きですか?」
「好きだから大切にしてたんだろ。半年前までは俺のものだったのに。夢ができたから別れようって。どうせ好きな人でも出来たからだろ」
少しいらついているかのように感じられる男性に彼女は言った。
「その女性のこと、心の底から信じていなかったんですね」
「はぁ?」
男性は声を荒げる。
「ちょ、ちょっとやめようよ」
僕は止めようとするが、彼女は止まらない。
「お前に何がわかるんだよ」
「わかりません。何もわかりません」
「じゃあ黙れよ!」
「でもあなたは、彼女から夢が出来たと聞いたとき、それを応援しようとは思わなかったのですか?どんな夢なのか尋ねましたか?あなたとその付き合っていた女性がどんな日々を過ごしたのかはわかりません。でも大切な人なら、大切な人だからこそ、夢を応援してあげようと思わないですか?」
彼女はゆっくりと話す。
「気持ちを押し殺せとでもいうのかよ」
「そうじゃありません。私はしばらくあなたがその女性ことを好きでもいいと思います。1つのものを大切にする、1人の人のことを思うということはとても素敵なことだと思います。でもこのまま、一生そうやって下を向いて変わらずに立ち止まっているんですか?」
男は黙り込む。
「あなたは彼女に執着してしまっていませんか?」
「それは……」
「少しでも一緒の道を歩めたってすごいことだと思いませんか?この広い世界でその女性と出会って、恋に落ちて、自分でもよくわからなくなるくらい溺れて。お互いの人生の一部を2人でつくる。それだけでも幸せなことだと思います」
彼女はゆっくりとそう言い、微笑んだ。彼女が放つ言葉は深く素敵で、何度も僕が真っ暗な海の底へ沈みそうになったとき救ってくれた。
「確かに……。そうだな。俺は貪欲になりすぎていたのかもしれない。よかったよ。このペンが割れて。これでやっと忘れられるだろう。ありがとうな」
男性は立ち上がり言った。
「忘れてはいけませんよ」
彼女が立ち上がって言う。
「え?」
「忘れてしまうと今、あなたを探している人を傷つけてしまいますから」
彼女は子供たちと手を繋いで言う。
「私が言ったことが気に障ることだったらすみません。あなたのクリスマスが素敵なものになることを願っています」
「メリークリスマス!」
「クリスマス!」
子供たちも次々に言う。
男性は僕の目をまっすぐに見つめて言った。
「俺が言えることじゃねえかもしれないけれど、大切にしろよ」
「はい」
僕が言うと男性はガラスの破片を片付けて去っていった。
「あぁー。怖かった」
「ごめんね。ついつい言っちゃった」
「やっぱりすごいね」
「え?何が?」
僕は質問には答えず、彼女と子供たちの手を取って歩き出す。自分の美しさに気づいていない、そんな彼女を僕は愛している。
「あ、げんくんのお母さんだ」
「ほんとだ」
「げんくんもいるよ。げんくーん」
子供たちが手を振ると、少し先にいる2人がこちらに気付いた。
「げんくんはね、お隣さんなの」
「そうなんだ」
「こんばんは」
手を繋いだ親子がこちらに向かって歩いている。僕と彼女を見て、不思議そうな顔をされた。
「この子たちが道に迷っていたので一緒にここまで来ました」
「僕たちを助けてくれたんだよ」
「うんうん!」
子供たちが口々に言う。
「あら、そうだったの。ありがとうございました」
子供たちの言うげんくんのお母様が言った。
「このあとは私たちが面倒見ます。ありがとうございました」
げんくんのお母様が僕たちに頭を下げる。
「お幸せにぃ」
「デート楽しんでね」
子供たちがきゃっきゃと跳ねる。
「ありがとう」
彼女が子供たちの頭を撫でた。彼女からにじみ出る優しさはたくさんの人を幸せにする。僕もその幸せになっている人の1人だ。
僕たちは子供たちに手を振り歩き出した。時計を見る。時刻は午後7時前だった。僕が入れたレストランの予約は午後7時だ。
「今から行っても間に合わないなぁ。キャンセル入れておくよ。料理は店員さんに食べてもらおう」
「ねぇ」
「ん?」
「なんか、ごめんね」
彼女が僕に言う。
「どうして謝るの?」
「せっかくレストラン予約してくれていたのに行けなくなっちゃったから」
彼女が申し訳そうな顔をして僕を見る。
「気にしなくていいよ。いいことしたんだからいいじゃん。その、子供に笑いかけている君は素敵だった」
「え?」
彼女は覗き込むようにして僕の目をじっと見つめる。僕は急に恥ずかしくなって目をそらした。
「ありがとう」
彼女は無邪気な笑顔で僕に笑いかける。
「どうする、この後」
僕は彼女に尋ねた。
「演奏聞きたいな」
「よし。そうしようか」
僕と彼女は広場のクリスマスツリーの傍で立ち止まる。そのとき、演奏が始まった。
僕が子供の時に聞いた演奏と変わらず、えもいわれぬ美しさがあった。いくつかの曲が演奏されて、最後の曲が始まった。この街のこの演奏会で毎回演奏されてきたクリスマスイブの夜にしか聴くことが出来ない特別な曲。僕があの日聴いて瞬きを忘れるほどの感動を受けた曲はこの曲だった。
高音のクラリネット、フルート、オーボエの木管楽器の音が響き、曲が始まった。ゆったりとした旋律を奏でる楽器の数はどんどんと増えていき小さなかたまりとなってはじける。そして曲調が変わり、トランペットが奏でる連符がこの街を駆け抜けていく。打楽器の音で音楽がはじけ、散った瞬間、ほんの少しのあいだ広場に静寂な空間が広がった。透き通ったフルートの音が、温かいクラリネットの伴奏にのって響く。
「星のささやきみたいだね」
「星のささやき?」
「聞いたことないけれど」
彼女がふふふと微笑む。
「何?それ」
僕は尋ねた。
「とっても美しいもの」
彼女ははっきりとそれが何か答えてくれなさそうだ。でも、それがとても美しいものであることは分かった。
木管楽器だけだった主旋律に金管楽器が溶け込み始める。曲はクライマックスへと向かっていた。僕はカバンの中から1つの小さな箱を取り出す。中には指輪が入っている。レストランで彼女にプレゼントしようと思っていたものだった。レストランの予約は取り消したからもうそこでわたすことはできない。僕の頭の中で様々な感情が戦っている。また今度でいいんじゃないか、わたしたい、わたすべきだ、こんなに大勢の人がいる中でプロポーズするなんてできないでしょ……?
「今……今日じゃないとだめなんだ。僕は変わるって決めたんだ……。彼女を大切に守れる人になりたいんだ」
僕の中からどうせ無理だ、恥ずかしいという感情を押しのけて湧き上がる感情があった。
僕は彼女と向き合い、まっすぐに目を見つめた。彼女は不思議そうな顔をしている。指輪が入った箱を持つ手が震えている。幼い頃の僕が僕の背中を押した。
「僕と結婚してください」
僕がそう言った瞬間、鐘が響いた。鐘の音が雪の降るこの街の夜に星のような光となって散る。美しい音楽が街を駆け抜け、大勢の人がそれぞれの夜を過ごし、きらきらとした夜、僕たちは見つめあう。彼女の目はブラックホールのように僕を吸い込もうとしてしまうくらい美しく、綺麗だった。
僕は箱を開け指輪が見えるようにする。
「はい。よろしくお願いします」
彼女はそう言い、笑顔を溢した。僕は彼女の白く細い指に指輪を通した。
「すごく幸せ。ありがとう」
「ほんとによかった」
僕の頬を涙が伝ったのがわかった。今まで生きてきた中でこんなに温かい涙を流したのは初めてだった。
僕は彼女の腕を引き、抱き締める。彼女の手が僕の腰へとまわる。彼女のぬくもりに触れ、溢れ出てくる涙と感情が僕を甘く溶かしていく。
僕は彼女の唇にキスをした。彼女の頬も濡れている。楽しい時、つらい時、彼女とのすべての時間を大切にしたい。自分の感情がうまく吐き出せず心の根が死んでしまいそうになったとき、彼女が僕を救ってくれたように、僕も彼女の弱さを抱き締めてあげることができる人になりたいと強く思った。
「これからもよろしくね」
僕は唇を離し、彼女にそう言った。
「こちらこそ、よろしくね」
彼女が溢した笑みと僕が出した感情はクリスマスイブの夜に溶けていった。