10話 バドナ伯爵と黒い侍女
ガラガラガラガラ…。
走りゆく馬車の中、バドナ伯爵は苦虫を噛み潰していた。聞くところによると、ニルド・ニルヴァンは調査室に身柄を拘束された当日に解放されたというではないか。
―― 最低でも一週間は拘束される目論見だったのに…何故だ
たかだか数時間の取り調べを受けただけでは到底『スキャンダル』とは言えない。バドナ伯爵は焦っていた。せっかくニルド・ニルヴァンが捕縛した泥棒に話を持ち掛け、上手いこと証言を変えさせたのに…!
ニルヴァン伯爵家は代々騎士の家系であった。数百年続く由緒正しい家柄、その当主全員が騎士だ。そして現当主も騎士団上層部に籍を置き、嫡男であるニルド・ニルヴァンは第一騎士団の筆頭にして有名騎士。
一方、バドナ伯爵家は、家の歴史こそ深いものの騎士の家系としては新生である。ここ五代の当主が騎士なだけだ。バドナ伯爵自身も騎士団上層部に籍を置いてはいるものの、発言力は他家と変わりない。長男は第二騎士団の傑物と言われてはいるが、ニルドに勝るかと言うと『良きライバル』と言ったところであった。
バドナ伯爵はオーランド侯爵と仲が良く、今回の騎士団管轄権の返上の話は事前に聞かされていた。それとなく口添えを頼んだが、『それは国及び国王が決めることだ』とけんもほろろにされてしまった。オーランド侯爵はフォーリアの胸をちゃんと見る好色オヤジではあったが、不正に対してもちゃんとしていたのだ。深慮である。
―― ニルド・ニルヴァンが泥棒に指示したという手紙も筆跡をよく似せた偽造だ。きっとあと三日もあれば鑑定結果が出てしまうだろう
バドナ伯爵はどうにかニルヴァン家よりも有利に立ちたかった。騎士団管轄権が手に入れば、バドナ伯爵家は安泰だ。どうにかニルヴァン家を…どうにか…どうすれば…。
ガタン!!
そんなバドナ伯爵のおどろおどろしい思考を止めるかのように、馬車が急停止した。
「どうした!?」
思わず体勢を崩しながら、窓を開けて御者を責め立てると「人が突然…!」と言いながら御者は慌てて馬車道に降りていった。バドナ伯爵も窓から身を乗り出して前方を見ると、馬車道に女性が倒れていた。
「なんてことだ!」
馬車と接触したのであれば一大事。悪いことを考えていたとしても騎士団上層部に属する騎士だ。バドナ伯爵は念のため剣を腰に差しながらも、女性の身を案じながら馬車を降りた。
「君、大丈夫か?怪我は!?」
「は、はい…」
女性は青い顔をしていた。目は虚ろ。少し震える身体。血色が悪い唇をやっと開いて返事をした。バドナ伯爵は女性の全身状態を確認し、大きな怪我がない様子に少し安堵した。
「申し訳ございません…突然目眩がして…」
「馬車と接触はしていないか?痛むところは?」
女性は小さく首を振って「大丈夫です」と言った。そして、立ち上がろうとすると、またもやフラフラとしたため慌ててバドナ伯爵が支えた。
「体調が悪そうだが」
「はい…迎えの馬車を呼びますので、お気遣いなく」
バドナ伯爵は女性の身なりを見た。コートの下には侍女が着るようなお仕着せを着ていた。どこかの屋敷で働く侍女なのだろう。コートもお仕着せも使用人にしては上等であった。きっとそれなりの家格の使用人であろう。
「君は侍女か?家名を教えて貰えるならば送り届けよう」
女性は少し迷うような素振りを見せた。窺うようにバドナ伯爵を見て、そして馬車の家紋をチラリと見た。警戒をしている様子だ。
「心配はいらない。私はバドナ伯爵家の当主だ」
バドナ伯爵が名乗ると女性はとても驚いた顔をし、青い顔が一層青くなった。
「も、申し訳ございません!伯爵家の御当主様とは知らず…大変なご無礼を。私、ニルヴァン伯爵家で侍女をしている者でございます。非礼をお詫びいたします」
―― ニルヴァン!?
先程までおどろおどろしいことを考えていた相手の名前が突然出てきて、バドナ伯爵は思わず目を見開いて驚いてしまった。
「そ、そうか。ニルヴァン家の…」
「休めば落ち着きます。お気遣い有り難う存じます」
そう言って、フラフラと近くのベンチに向かっていった侍女の後ろ姿を見ながら、バドナ伯爵は少し考えた。ニルヴァン家の使用人と知り合う機会など滅多にない。この侍女からニルヴァンの弱みを聞き出せないかと…。バドナ伯爵はこの偶然の出会いに運命的なものを感じた。そして「待ちたまえ」と思わず声をかけてしまった。
「こんなところでは休もうにも休まらないだろう。我が屋敷で休むといい。すぐそこだ。ニルヴァン家には使いをやって迎えに来てもらうように手配をしておこう」
「い、いえ…ですが…」
「大丈夫だ。さあ乗って」
渋る侍女の背中を支えながら、バドナ伯爵は侍女を馬車に乗せて走らせた。
「ニルヴァン家の侍女だったかな、名前を伺っても?」
ガタガタガタ…。
揺れる馬車の中で、青い顔をした侍女は柔らかく微笑んだ。そこらへんの男だったらコロリと落ちてしまいそうな可愛らしい微笑みであった。
「ミリーと申します。ご面倒をおかけいたします」
座礼をした拍子に赤混じりの美しい黒髪が一房、肩からパサリと、落ちた。
ありがとうございます。