79話 人生でたった一つの恋を見つけた日の話だけは内緒していい?【3】
デレます。
【八年前・王都】
ワンスの脳内カウントによって算出された時間は、三十分。そこでピタリと馬車は止まった。犯人に担がれて外に出されると、煙草の香りと湿っぽい空気が麻袋の中まで漂ってくる。この独特な空気感、靴が地面とぶつかる音。距離から言っても、北通りの路地裏のどこかに違いない。
―― 北通りかぁ、王都から出されなかっただけマシか
そのまま建物の二階に運ばれる。ひんやりとした空気と埃っぽさから察するに、どうやら空き家の様子。そんなことを探っていると急に床に下ろされ、次にチクチクの麻袋から出して貰えたと思ったら、今度は目隠しをされて後ろ手に縛られる。忙しいやつらだ。
「しばらくここで大人しくしてろ」
そう言われて部屋に押し込まれた。背中をドンと強く押されたものだから、転んで床に身体を打ち付けることになってしまい、思わず「いってぇな……」と素が出てしまった。大事な商品相手に何てことをするんだと少し苛立つが、その呟きはドアを閉める音にかき消されて犯人までは聞こえなかったらしい。
ワンスは起き上がって、ふーっと一息吐いた。
―― さて、女の子がどこかにいるはずだ。探さなきゃ
と思った瞬間、すぐ隣に誰かの気配がした。
「いたいのいたいのとんでけ~♪ だいじょうぶ?」
ドキンと心臓が跳ねた。鈴が鳴るような声。可愛く甘く、もっと聞きたくなるような心地良い声だった。
―― え、なにこれ。何かドキドキする……
ワンス少年は少しだけ焦る。こんな異常な胸の挙動、これまで一度も経験したことがなかったからだ。孤児院にもたくさん女の子はいるが、その誰とも違う。少し顔に熱が集まるような感じがして、なんだか胸と背中がざわざわした。
ちょろいって? いやいや、まさかそんなわけない。少年期とは言え、あのワンス・ワンディングだ。声を聞いただけで恋をするだなんて、まさかそんな。
しかし、今はそれどころではない。なにせ誘拐事件の真っ只中。
ブンブンと大きく頭を振って、背中のざわつきを振り払う。冷静な声で「大丈夫だよ」と答えた。
「君は誘拐された子だよね?」
「え!?」
「ん?」
何に驚いているのだろうか。よく分からない彼女の驚きに、ワンスの思考は珍しく止まった。十秒くらいだろうか、謎の沈黙が部屋の中をふわりと漂う。
「えっとー、名前を聞いても?」
「フォーリアです」
御婦人から聞き出した名前と一致。やはりあの女の子だ。
「あなたのお名前は?」
目隠しをされた暗闇の中で迷う。ワンス・ワンディングとは絶対に名乗れないわけだが、かと言ってエース・エスタインと名乗るのは何となく嫌だった。可愛い声でワンスと呼んで欲しい……ような気がした。でも、ここでは仕方がないと割り切るべきだ。賢い頭が指令を出す。
「……エース」
「エースね! よろしくね」
「あ……うん、よろしく」
しかし、フォーリアにエースと呼ばれた瞬間、とても後悔してしまった。頭では割り切っていても、心が全然納得していない。
―― ワンスって言えば良かったな……
そう思って、慌てて頭を横に振る。いやいや、今は名前なんてどうでもいいじゃないか。先程から賢い頭に、ぬるーい何かが入り込んでくる感覚がしているわけだが、全力で気付かぬふりをして話を続ける。
「誘拐された心当たりはあるか?」
「え!?」
「ん?」
さっきから誘拐という単語を言うと驚かれる。どういうことだろう。
「さっきから変なところで驚いてるけど、どうかした?」
「だって、誘拐なんて怖いことを言うから驚いちゃって! なになに? 何かの物語の話?」
「……ん?」
―― いやいや、そんな馬鹿な。いやいやいやいや、まさかそんな。えーー?
「えーっと、もしかして、誘拐されたことに気付いてない?」
「え? 誰か誘拐されたの? 可哀想だね、無事だといいね」
―― おーい! 母さん! とんでもねぇ馬鹿がここにもいたよ!!
ワンスは目隠しをされた暗闇の中で、もっと濃く黒い闇を見た……!! この感覚、母親と死別してから約四年、久しぶりだった。様々なピンチを乗り越えてきたワンスであるが、今回は色々とダメかもしれないと思い始める……。あまりの暗闇具合に、なんだか頭がほわんとしてきたぞぉ……ほわんほわんとして、うっかりと素を出してしまう。
「さては……お前って馬鹿?」
そう、ここだ。
ワンス・ワンディングとフォーリア・フォースタ。この二人に確かな関係が繋がれたのは、この瞬間だ。八年後のフォーリアも語っているが、このとき彼女は確かに恋に落ちた。猫かぶりのワンスが素を出したことで、運命の赤い糸とやらが固く結ばれたのだろう。
素を出してしまったワンス少年は、「あ」と思わず声をこぼす。すると隣から「ふふっ」と笑い声が聞こえてくるではないか。馬鹿と罵られて笑ってる! こいつは本物だぁ!
「ふふっ、馬鹿なんて初めて言われた! 嬉しい! 私、エースと仲良くなりたい」
「はぁ?」
「ね、お願い!」
「……変なやつ」
「ふふっ、エースっていいね! すっごく好き!」
すっごく好き……好き……好き、すっごく、好き……。ワンスの頭の中にフォーリアの『好き』が108回程リフレインした。瞬間、顔に熱を感じる。熱風でも当てられたのかと思うくらいの熱さ。目隠しの布で隠しきれないほど、彼の顔は赤かった。
―― 好きって言われた……なにこれ、やばい嬉しい
全身がぞわぞわして落ち着かない。とにかく嬉しくて胸はドキンドキンと大きく動く。目隠しで暗闇の中にいるはずのに、目の前にはお花畑が広がっているではないか。賢い頭の中にほわんと温かい風が通り抜けて、回転が鈍るような心地がした。ちょろい。
ワンスは慌てて、その温かい空気を頭の中から排除するように会話を続ける。
「えーっと、あの、フォーリア……って呼んでいい?」
「うん、いいよ!」
「フォーリア、良く聞いてほしい」
「はい!」
「今、お前と俺は誘拐をされている。フォーリアは中央通りで麻袋に突っ込まれて、馬に乗せられてここまで無理やり連れてこられた」
「え!?」
「ここまで理解はしたか?」
「分かったわ! 安心して、エースは私が守る!」
ずっこけた。またもや頭がほわわん~。
「あ、うん、ありがと。話を続けていい?」
「はい!」
「誘拐と言えば、目的は大きく二つ。一つは身の代金目的。もう一つは人身売買だ」
「なるほどね。バイバイね!」
「……さてはお前、すっげぇ馬鹿だな」
「ふふっ、そうかしら? ふふ」
「嬉しそうにすんなよ、変なやつ」
馬鹿と言われて喜ぶほどのお馬鹿さん。目の前にいるのはそのレベルだと思ったら、こいつは俺が守らねばと謎の使命感が生まれた。だって、放っておいたら即死亡しそうなんだもの。果たして彼女を抱えて逃げられるものだろうか……。
とは言え、泣き言を言っていても仕方ない。ワンスは思ったことをズバズバ言うことに決めた。彼女に対して、嘘なんてつく必要はないのだから。
「まぁいいや。でさ、お前んちって金持ち?」
「うーん、お金持ちでも貧乏でもないわ」
「なるほど。となると、お前って金髪?」
「うん、金髪よ」
「やっばりな。人身売買で決まりだな」
―― 金髪の俺を攫うくらいだもんなぁ。下調べなしの突発的人攫いってとこか
もし身の代金目的ならば、相手方が金持ちの家なのか下調べをしてから実行するはずだ。特に、ただの孤児院の子供であるワンスを見境なく誘拐したところから、既にそれを想定していた。賢い子供だ。
「だとすると、さっさと逃げないとヤバいな」
「そうね、私もそう思っていたわ」
「……お前を助けるのも骨が折れそうだな」
「ふふ、エースは正義のヒーローね!」
フォーリアから贈られたヒーローという言葉がとても嬉しくて、ワンスは思わず「ありがと」と返事をしてしまう。なんだか居たたまれなくて、目隠しの中で目をギュッと閉じた。
「ねえねえ、どうやって敵を倒す? 剣とか持ってる?」
「はぁ? お前って本当に考え無しだな。大人相手に勝てるわけねぇじゃん」
「じゃあどうするの?」
「逃げの一手だ」
「そうね、私もそう思っていたわ」
「……ばーか」
フォーリアを無視して、どうにか目隠しを取ろうとしたが無理だった。隠しナイフで縛られた手を解放するか……とも思ったが、その前に。
「おい、フォーリア。お前って目隠しされてるよな?」
「うん、何も見えない」
「手は縛られてる?」
「うん、痛いくらい。でもね、赤いリボンで縛ってくれたの。可愛いでしょ?」
「いやいや、何で色がわかんの?」
「目隠しされる前に、縛るところ見てたから」
「とすると、もしかして手は前で縛られてる……?」
「うん!」
―― とんでもねぇアホがいた!! 犯人も相当だな……
「フォーリア」
「なに?」
「縛られたままでも、目隠し取れるんじゃねぇの? 下か上にずらしてみろ」
十秒ほどの沈黙が訪れ、十一秒目に布が擦れる音が聞こえる。
「すごいわ! 取れた!」
「気付けよなぁ」
「わぁ、エースも金髪なのね。……分かったわ、犯人は金髪の子供を狙って誘拐したのよ!」
「うん、お前にしてはすげぇ賢いこと言ってるよ。えらいえらい」
「ふふふ」
全ての生き物を脱力させる笑い方だった。
「はぁ……俺の目隠しも取れるか?」
「はい!」
フォーリアはワンスの後ろに回って、結び目をシュルシュルと取ってくれた。目元が解かれていくと、なんだか心許ない感じがしてしまう。目隠しだけでなく、心の結び目も解かれているような……そんな心地がしたからだ。
時刻は夕方になる前で、外はやたらと明るかった。目隠しを外されたワンスは眩しさを強く感じて、目をすぐに開けられない。……いや、違う。すぐに目を開けなかったのは、フォーリアを見るのが怖かったからだ。
彼女の声を聞いたときから、もう嫌な予感しかしていなかった。会話を重ねる度に心がくすぐられ、背中がぞわぞわとする。頭に温かい空気が流れ込んできて、もうこれは予感ではなく確信に近かった。
もしかして、恋をしてしまったのではないか。
何も知らない相手だ、顔すら知らない。容易すぎるだろう。でも『そんなわけない』と自己欺瞞を成功させるには、ワンスは幼すぎた。このままフォーリアを見たら、もう元の自分には戻れないような気がして、ある種の恐怖すら感じる。ざわざわと、ずっと警鐘は鳴り続けていたのだ。
彼女を見ない方が身のためだ。でも、見たい。見ずにはいられなかった。
いつだって人の欲望は理性に勝るものだ。恐る恐る振り向くと、そこには衝撃的に可愛い女の子がいた。十二年間で……いや、これから続いていくワンスの人生の中で、一番可愛い女の子だった。
頭のてっぺんから爪先まで、もう全部が愛らしい。彼女の息づかいすら可愛いくて、彼女が呼吸をする度にひどい眩暈がする。頭がふわふわしてクラクラする。クラクラ…くらくら、グラグラ、グラリ。賢い頭の中で、何かが傾いた音がした。
「好きだ」
気付いたときには小さくそう呟いていた。頭より先に口が動いてしまうなんて初めてのことで、ワンスは「あ」と声をこぼして慌てて俯く。
―― 何言ってんだ、俺! 馬鹿! 馬鹿すぎる!
顔が熱い。鏡を見なくてもわかる、絶対に赤い。本当は手で顔を覆い隠したかったけれど、あいにく手は縛られたまま。隠す事もできず、俯いてやり過ごすしかなかった。拷問である。
あのワンス・ワンディングとは思えないって? いやいや、まだ十二歳。彼にもいじらしく底抜けにピュアなときもあったのだ。
ちなみに、ワンスの黒歴史第一位が、この『目隠しを取ったらうっかり告白しちゃった事件』である。二度と思い出したくなくて必死になって忘れたのに、フォーリアと再会した瞬間に賢い頭は全てくっきりと思い出してしまった。拷問である。
そして、思い出してしまったからには絶対に! 一生! 誰にも話さずに黙っていよう! と固く誓っている。よって、二十歳の現在でもフォーリアには秘密だ。
「どうしたの? 大丈夫?」
俯くワンスを気遣うフォーリア。幸か不幸か、目の前にいるのはお馬鹿な子供だった。ワンスの人生で一度きりとも言える素直な愛の告白に一切気付くこともなく、フォーリアは心配そうに覗き込んでくるだけ。勿体ない! 八年後に聞かせてやりたい!
すると、フォーリアの顔の近さに驚いたワンスは、さらに顔を赤くして体温が急上昇。まさに悪循環だ。
―― 近い近い近い! やばい、インターバルが欲しい。息、吸えてない! 酸素!
「ダイジョブ。少し、離れて」
出てきた言葉が片言すぎて、また驚く。頭と口の間の接続がオフになると、こんなに話せなくなるのか。十二歳にして人間の不自由さを初めて痛感する。人体の不思議だ。
―― 落ち着け。まずは息を吐く
「ふーーー」
「ふーー?」
ワンスが息を吐くと、それを見ていたフォーリアも首を傾げつつ真似をしてくる。
―― えーー? なんで真似してるの? 馬鹿なの? めっちゃ可愛い……! って違う違う。これじゃあ父さんと同じじゃん。俺は違う。次! 息を吸う!
「すーーー」
「すーー?」
―― あーー、可愛い。馬鹿みたいに可愛い。すっげぇ好き……いや、認めない。絶対認めたくない!
ワンスは認めたくなかった。だって、自分は賢いという絶対的な自負があったからだ。こんな馬鹿女に心を奪われて馬鹿になるだなんて、信じられなかった。馬鹿は感染するとはこのことかと。
この一目惚れという現象を、全力でなかったことにしようと決める。フォーリアの方を見ずに、なるべく声を聞かずに、とりあえずここから逃がして一生関わり合いにならない。後は時間が解決してくれるだろう、たぶん、きっと。そうであってほしい。
結論から言うと、時間は解決などしてはくれなかったわけだけど。