32話 本当の名前を名乗れる喜び
来客はニルド・ニルヴァンと、ファイブル・ファイザックであった。
扉を開けた瞬間のニルドの驚き具合と言ったら、真っ青を通り越して真っ暗。突然、この世の終わりがやってきたかのようだった。ファイブルの目はキラキラと楽しそうに輝いていて、相反する二人の反応に、ワンスは口元を隠してちょっと笑っていた。
そんなメンズたちのリアクションを余所に、ミスリーはニコリと微笑む。
「こんにちは、ニルド様」
「……えーっと……」
「ミスリー・ミスラです」
「いやー……なんでここに……?」
「偶然ってあるんですね、私とフォーリアって親友なんです」
「親友!?」
「ニルドとミスリーって知り合いだったのね! ミスリーは、私の乳姉妹なの~」
「姉妹!?」
「びっくりですね! これからよろしくお願いしま~す♪」
腹をくくったミスリーは強かった。
まだ昼間と呼べる時間に、こうやって本当の名前を名乗れる喜びに胸が躍る。本当はずっとこうしたかった。こうやって、彼と面と向かって会いたかったのだ。八年間の歪んだ愛が、ほんの少しだけ浄化されていく。
一方で、ニルドは奥歯をガタガタ言わせていた。そりゃそうだ、知らず知らずのうちに大本命の親友とそういう関係になっていたのだから。『もう取り返しが付かない。フォーリアは知っているのか……?』と思っている様子で、人生の落とし穴に両足突っ込んでヒューっと落下中であった。
「ニルヴァン、一旦落ち着こう。こちらへ」
同じ男として、ほんの少しだけ同情したワンスは、ニルドの肩をポンと叩く。心も身体もガチガチの背中をそっと押して応接室に運んであげた。いや、そもそもワンスが仕組んだことなのだが。
ミスリーに目配せをしてフォーリアを押し付け、キッチンに下がらせる。ミスリーがいると目配せで事が進むから楽だ。
こうして、メンズ三人が応接室に集合。いつの間にか、ファイブルも部屋に入っていた。楽しそうなやつだ。
「へえ、ニルド様、ぐふっ……気を確かに……げふん」
「ワンス、なにがどうしてこうなった……? お前がノーブルマッチのオーナーなら、俺とミスリーのことは知っていただろう!?」
「もちろん。俺がマッチを決めてるからね」
「だったら、こんな風に会うのを防ぐのがお前の仕事だろうが! あー終わった、俺のフォーリア人生が終わりを告げた……」
終わったニルドに、ワンスは始まりを告げてあげる。
「まぁまぁ、こっちにも事情があったんだよ。だってさぁ、ミスリーがニルヴァンのことガチで好きって言うからさぁ」
「え? そうなのか? それ本当か?」
「ぐふっ……げふんげふん」
満更でもない様子のニルドであった。さすが女たらし! クズの極み! そして、笑うなら出ていけファイブル!
その反応で、ワンスは『いける!』と思った。取って付けたような切ない表情を作り、ニルドの肩に手を置く。
「ミスリーは、ずっとお前を好いていたんだ。俺とは旧知の友人だったからさ、ニルヴァンとマッチして欲しいと頼んできたんだよ。身体だけの関係でもいい。結ばれなくたっていい。彼のそばにいられるなら、どんな立場だって構わないと。泣きながら懇願してきたんだ」
「ミリーが……?」
嘘である。泣いてはいない。
「だからさ、これからはミリーじゃなくて、ミスリーとして彼女を見てやって欲しい」
「ミスリーとして……」
「ニルヴァンの本命がフォーリアだっていうのは知ってるけど、フォーリアは……ほら、伯爵夫人としてはアレじゃん? ぼんやーりふんわーりしすぎてる」
「まあ、確かに……ニルヴァン伯爵家の夫人が務まるかと聞かれると……でも! フォーリアの、あの可愛さ! 美しさ! 優勝だろう!? あぁ好きすぎる」
ニルド杯によって勝手に優勝させられていたフォーリア。八年間、一体誰と戦ってきたのか。さぞかし激戦だったのだろう。
「いいか、ニルヴァン。フォーリアの美貌は、いつか必ず衰える。ミスリーの(あるか知らんけど)衰えない内面を見てやって欲しい。少しずつでいいんだ。フォーリアにはバレないようにするから、二人の時間を作ってやって欲しい。ミスリーもフォーリアには内緒にしたいそうだ」
ワンスは懇願してる風を装って、目頭を押さえてみたりした。
八年間も拗らせてしまったニルドも、さすがに思うところがあるのだろう。小さくだが、確実に頷いた。結局は、フォーリアに内緒にするという言葉が響いたのだろう。あぁ、どこもかしこも最低な男ばかりである。
ファイブルが「それが良いでしょう、へえ」と、相槌を入れてくれたのもなかなか良かった。ミスリーとニルドがノーブルマッチの大人な関係だと知って、銀縁眼鏡の輝きが半端ない。今日一日の出来事だけでも、計画に加担した甲斐があったのだろう。こちらも最低な男だった。
「落ち着いたら、ミスリーと話しておけ」
ワンスが顎でファイブルに『出るぞ』と指示を出すと、ファイブルは少し残念そうにしながら従った。ニルドは心細い表情をしてはいたが、いつかは通らねばならぬ道だ。一瞬の後に、腹をくくった様子だった。
コンコンコン……コン
迷うように四回。ノックが聞こえてきて、ニルドは「どうぞ」と答えた。少しの間を置いて、ミスリーが応接室に入ってくる。
ミスリーは「紅茶を淹れるね」と小さな声で言った。カチャカチャと茶器が揺れてぶつかる音が、やたら響く。きっと彼女の手が震えているからだろう。
紅茶をテーブルに置くミスリーの手をじっと見る。記憶の中よりも白い手だった。会うのはいつも、暗い夜。ノーブルマッチの部屋だけの関係だ。それが何の因果か、まさかの愛しいフォーリアの家で、二人きり。
「ニル……じゃなくて、ニルド様って呼ぶべきよね」
彼女は苦笑いで問いかけてくる。
「いや……今さら『様』というのも変だろう。ニルドでいい。俺もミスリーと呼ぶよ」
名前を呼んだだけ。それなのに、ミスリーは目を見開いて、泣きそうな顔でクシャッと笑う。心の底から嬉しそうな笑顔だった。
初めて見た、と思った。何回も何回も会っているはずなのに、こんな風に無邪気に笑う彼女を見るのは初めてだった。ワンスが言っていたことを実感する。ミスリーに恋慕を抱かれているのだと。
「フォーリアとは……幼い頃から付き合いがあるのか?」
「うん、そうよ。私の母親がフォーリアの乳母をやってて、それで姉妹みたいに育ったの。ここにも何度も来てるわ」
「全然気付かなかった。よくかち合わなかったな」
「そのことなんだけど……」
ミスリーは、どう伝えていいか分からなかった。落とされそうになる沈黙を、窓から入り込む風がふわりとさらってくれた。その風を掴むように、グッと手を握りしめる。握りしめていないと、手がガクガクと震えそうだった。言うなら今しかない。今言わないと、もう言えなくなる。
「……ごめんなさい、私は知ってたの」
「え?」
「ニルドがフォーリアを好きだって、知ってた。マッチする前から知ってたの。だから、ここでかち合わないように気をつけてた。フォーリアにはニルドと知り合ったことは隠してたから……ごめんなさい……」
「そうだったのか」
「怒っていいよ……好きな人の親友なんて、最悪でしょ? ホント、自分でも最低だと思ってる。黙っていてごめんなさい」
ニルドは少し考えているようだった。ミスリーは断頭台で待たされている気持ちで、彼の言葉を待つ。
「うーん、最低なことなのか……と聞かれると、よく分からないな。別に怒ることでもない、とは思う」
「……え?」
「少し想像してみたけど、俺が同じ立場でも黙っているかもしれない。黙っていないにしても、何かしら邪魔はするだろう。というか……俺も、実際に邪魔してたしな。共感するところもあるよ」
例えば、フォーリアに好きな男がいて、それが実は自分の親友で、そいつにバレないようにフォーリアと関係を持つために『すべてを黙っている』という選択。ニルドの中では、それは悪とカウントされないのだろう。
「だって、ミリー……じゃなくてミスリーは、俺のことを本気で好きなんだろう? じゃあ仕方がない」
「え!? ま、待って!」
「なんだ、どうした? 顔がすごく赤い」
「だって! 私が本気で好きって……なんで?」
「さっき、ワンスが言ってたけど」
「うそ!? アイツ本当にろくな事しないんだから! もう!」
「え、嘘なのか?」
うぐっと声をこぼして押し黙る。思わず俯いて、ギュッと目を瞑った。
「うそ、じゃないです……」
目を瞑ったまま呟いた。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。ベッドの上で何回も好きだの何だの茶番みたいに言い合ってきたくせに、『ミスリー』になった途端に上手く言葉が出てくれない。
ミスリーは、フォーリアが眩しかった。ワンスにストレートに感情をぶつける姿を見て、心底羨ましくて……ニルドに愛されるのは、彼女のああいうところなのかなと思うと、全てを黙って裏で手を回して相手を調べあげ、やっと身体だけの関係を手に入れた自分が、ひどく汚い人間に思えた。
だから、今だけは。この昼間の光の中だけは、綺麗な姿をニルドに見てほしかった。もう一度、手をギュッと握って、勇気と度胸を手繰り寄せる。
「好きです」
目を開けて、ニルドを見つめて言い切った。手は震えていたし、いつもみたいにサラリと言う可愛らしい『好き』とは全然違う。カッコ悪くて恥ずかしかった。
「好きでいても、いいですか?」
震える右手を、震える左手でギュッと押さえ込んだ。今すぐ逃げ出したい。でも、動けなかった。
八年分の歪んだ愛情が、窓から差し込む明るい光で浄化していく。気持ちを吐露できて、とても心地が良かったのだ。動けなくなるほどに。
「ミスリー、ありがとう」
ニルドはしっかりと見てくれていた。その瞳には、ミスリー・ミスラが映っている。
「……でも、俺はフォーリアが好きだから、ミスリーの気持ちに答えられない」
「うん。知ってる」
「でも、ミリーじゃなくて、ミスリーをもっと知りたいとも思ってる。ごめん、そんな中途半端な答えでもいいか?」
ニルドの苦笑いを聞いて、俯いていた顔をバッとあげる。嘘みたいだと思った。知りたいだなんて、そんな夢みたいな言葉をくれるなんて思っていなかったのだ。小さく「うん、いい!」と言って、何度も何度も頷く。嚙みしめるように、頷いた。
「ニルドが私のことを知りたいって思ってくれて……嬉しい」
何だか気持ちがラクになる。『自分のままでいいんだ』と思ったら、今までの自分が馬鹿らしくなったのだ。いわゆる、吹っ切れたという状態だろう。積年の歪んだ気持ちに、一つの区切りがついた。
すると、そのとき。キッチンの方から「あれ? ミスリー?」とフォーリアの呼ぶ声が聞こえてくる。その瞬間、ニルドの目がキラリと光った。愛しいフォーリアの声に、彼の胸が高鳴ったのだろう。当然、それを見逃すミスリーではなかった。さすが年季の入ったストーカーである。
吹っ切れたミスリーは、これまた強かった。スッと立ち上がって、迷うことなくニルドの隣に座り直す。
「ねぇ、ニルド。フォーリアが好きだけど私のことも知りたいって、私のことをキープするってことよねぇ?」
「え゛?」
平たく言うと、そういうことになる。フォーリアのことは諦めないが、ミスリーも気に入っているということだ。心の内を読まれたのだろう。ニルドはギクリと肩を跳ね上げて、そのまま固まってしまった。
ミスリーは妖艶にふわりと微笑み、ニルドにチュッとキスをした。
「私のことキープするなら、こういうこともしてくれないと飽きちゃいそう。いい?」
「……いやー、それはさすがに……」
「え~? なんで? お願い、今までと同じでしょ?」
「でも、ミスリーはフォーリアの親友だろ……? そういうのはちょっと……」
ミスリーは知っていた。ニルドは可愛い甘え方が大好物であることを。そして、彼の下半身が大変緩いことを、世界中の誰よりも知っていた。
もう一度ニコリと微笑んで、ニルドの耳元に唇を寄せる。魔法の言葉を囁いてあげた。
「お願い。フォーリアには内緒にするから、ね?」
魔法の効果を確かめるように、またキスをしてみると、彼の理性がグラリと傾く音が聞こえてきた。グラリ。すごく良い音色だ。
そのキスにニルドが応えてくれたので、返事は『イエス』だ。先程の純愛告白っぷりはどこへやら~。あちらに比べて、こちらは大人の世界であったとさ……。
さて、あちらとこちら。
どちらの恋が成就するかな?




