16話 追いかけっこは全速力で
ニルドは馬を走らせながらも大混乱していた。
―― レストランはまだしも、酒場で働いてたってなんだよ。そんなこと全然知らなかった
普通の貴族令嬢は働かない。あの没落寸前のフォースタ家の令嬢ことフォーリアでさえ働いたことなどない。
一番の理由として慣習的な面や貴族の体面が挙げられるが、副次的な理由として危険であることが挙がるだろう。
騎士であるが故に数多の事件を見てきたニルドであるが、貴族令嬢というだけで危害を加えられたり襲われたりという事例は何件も覚えがある。
―― バドナ伯爵の件で犯罪者と対峙して手引きをしたかと思ったら、酒場勤務……あの可愛らしさで大衆酒場、嘘だろ
ニルドはミスリーの危うさに目眩がした。そうして目眩と共に訪れたレストラン。此処はもうすでにミスリーが最後の挨拶だと訪ねた後であった。
ならば!と向かった酒場で、ニルドは衝撃を受けた。酒場は15時くらいから開店している店であり、ニルドが訪れたときは開店してすぐという頃合いであったが。
―― 制服のスカートの! 丈が短ぁぁあい!!
ウェイトレスの制服は膝が丸出しくらいのスカート丈であった。
ニルドは騎士だ。騎士団には平民出身の同僚もたくさんいるため、別店舗の大衆酒場には何度も訪れている。だから、ウェイトレスのスカート丈が短いことも知っていた。今まで何とも思わなかった。あの娘は足がキレイだな~とかその程度だ。だけど、それをミスリーが着ていたとなると話は別だ。
―― どこぞの男に、脚を、丸出しで!
真実を告げると、脚どころか結構色々と丸出しで生きている奔放娘なわけだが、それはこの際丸ごと闇に葬り去った方が良いだろう。
そもそもにニルドともノーブルマッチで出会っているわけだから、奔放なことは知っているだろうに。ニルドはすでに視野狭窄状態であった。
目眩と視野狭窄を抱えながらも店員にミスリーのことを聞くと、今し方挨拶に来たというではないか! 慌てて外に出てみるが、姿はなかった。
大きなトランクケースを抱えていたらしく、きっとこのまま馬車に乗り込んで王都を出る気なのだろう。
―― それなら、馬車乗降場か!
一番近い馬車乗降場に馬を走らせ、馬の上から辺りを見渡す。人混みの中、ニルドは唯一人を探した。
いない、あれも違う、あの女性も、あれじゃない……。此処にいなかったら、もうどこを探していいか分からない。ワンスもフォーリアも行き先は知らないと言っていた。二度と会えなくなるかもしれない。もう二度と。
その瞬間、赤混じりの美しい黒髪が目の端に入り込んだ。一筋の光のように視界にバッと入ってきた。
―― 見つけた!!
ニルドは見失わないように彼女を目で追いながら急いで馬を繋いでおき、ミスリーに駆け寄った。あと20mといったところでミスリーもニルドに気付いた。
二人の視線がカチッとぶつかった。
「ミスリー!」
ニルドは心底ホッとして手を挙げて彼女の名を呼んだ。彼女の名前を呼べば笑顔で駆け寄ってくれると思ったからだ。だって、今までずっとそうだったから。
しかし、事態はそんな易しい状況ではなかった。呼びかけられたミスリーはサッと顔を青くして持っていたトランクをその場に置き捨てて、なんと驚くことに逃げ出したのだ。しかも全速力で。
―― え、え、逃げられた……よな?
ニルドは手を挙げたまま固まった。挙げた手がかなり虚しい状態だったが、そのまま固まった。ニルドは20年の人生で、初めて女性に逃げられたのだ。どちらかと言えば、いやどちらかと言わなくても、女性が寄ってくる人生であったニルドにとって、自分が呼びかけて顔面蒼白で逃げられるという稀有な体験に、心がぽっきり折られた。ぽっきり。
―― 全速力で逃げるほど、嫌われた?
折られた心で思うのは、そういうネガティブなことであろう。
しかしそのとき、『嫌われた』というワードからニルドはワンスの言葉を思い出した。意外なことに人生のターニングポイントでワンスの言葉を度々思い出すニルドであるが、今回もそうであった。『ミスリーはニルドに嫌われたと思っている。拒否されても追い掛け続けろ』という経験からくる的確なアドバイスだ。
―― 追い掛けろ! 追い掛けなければ二度と会えなくなる!
そう思ったら、足に力がみなぎった。彼女が自分を嫌っていたとしてもどうでもいい。絶対彼女を逃がさないと、心に何かが湧いて出てきた。
人はそれを度胸と呼ぶわけだが。
ニルドは心で掴んだ度胸と共に駆け出した。騎士として毎日鍛えている身体だ。相手は風変わりとは言え、華奢なご令嬢。ちょっと走れば追い付くことなんて容易だと思ったが。
「おいおい嘘だろ! はやっ!!」
なんと驚くことにミスリーはめちゃくちゃ足が速かった! 丈の長いスカートで街中を全速力で走り抜ける姿はかなり異様で、道行く人の注目の的であった。それでもミスリーはそんなことを気にすることはなく、全速力で走り続けた。
そして、こちらも驚くことに、ミスリーの走りを見たニルドは本気になった。心は折れなかった。絶対逃がさないと全速力で彼女を追いかけた!! 目がマジだった。もはや犯人確保のときの騎士の目をしていた。
平和な王都の街、全速力で追いかけっこをする美男美女の二人。相当な注目度である。
そんな二人を偶然目撃しためっちゃ楽しそうなファイブルもいたわけだが、それはまた別のお話。
一方、ミスリーは全速力で逃げつつも、なぜ彼が追い掛けてくるのか分からなかった。チラリと後ろを振り返ると遠目から見ても分かるほどにニルドの目が本気だった。正直、殺される!と思った。殺さないにしても、殴られるんじゃないかと思うほどにニルドは全速力だった。
ミスリーは確信した。これまでのストーカー行為を知った彼が自分を嫌うのは当たり前として、報復のために今日此処にやってきたのだと確信した。このまま彼の罵詈雑言を聞くのが贖罪なのかもしれない。
しかし、そんなことを聞いてしまったが最後、精神は崩壊して少し賢い屍としてただ息をするだけの余生を送るだけだと恐怖した。……少し賢い屍、どこかで聞いたような。
「路地に逃げるしかないわ!」
ミスリーは地の利を活かす方向に切り替えた。直線の全速力では絶対に勝ちはない。この場合の勝ちとは何だろうとか考えてはいけない。この際、酸素が回らない重い頭は切り捨てて、とにかく逃げ切ることに全力を注ぐのだ。
ミスリーはやたら美しいステップを踏んで路地に入り込んだ。そしてまた全速力。
一方、それを見ていたニルドは。
「路地とは安易だな。騎士団をなめるな!」
なんてこった。まるっきり犯人確保の騎士であった。愛とか恋とかどこいった。
ニルドは同じように路地に入って追い掛け続けた。入り組んだ路地を右に左に曲がりまくる彼女の背中を追いかけ続けた。
走り続けていると、当たり前なことだが、ニルドの持久力の方がミスリーを上回る。徐々に距離が近付く。
あと、5m、4、3、2、1……。
そのとき! 焦ったミスリーが「きゃっ」と声を上げながら躓いた! 華奢な身体が地面にぶつかる直前、ニルドがミスリーの腕を掴んでそのまま引き寄せて抱き留めた。間一髪、さすが騎士である。
「あぶな……! はぁ、やっと捕まえた」
「はぁ、はぁ、ぜぇぜぇ」
「全力で逃げすぎだろ」
「ぜぇぜぇはぁはぁ……ごめん、ちょっと、待って」
「分かった。インターバルな」
そう言いながらも、ニルドはミスリーの腕を掴んだまま放さなかった。この腕を放したら彼女はどこかへ飛んで行ってしまいそうだったから、とてもじゃないが放せなかった。
イマイチ掴みきれない彼女をこの手で掴んでいるという今この瞬間、心の距離がグッと近付いた気がした。だから、放したくなかった。
長いので2話に分けました。