死合
≪里琴。お前は男だ。男になるんだ!≫
古めかしい道場。
そして古風な父による厳しく、激しい指導。
宇野女の言葉を受け、崩れ落ちる間際にあった里琴は、
フラッシュバックを起こすように師範である父の事を思い起こしていた。
古流合気道の流れを汲む武家屋敷。
長い歴史を持つその家は求めていた男児に恵まれず、
受け継いで来た技と伝統が途絶えようとしていた。
それ自体は、珍しくもない話ではあったが、
まだ幼い里琴には何も理解出来ず、日々の特訓に憔悴して行く事になる。
≪違う!そうじゃない!何度言ったらわかるんだ!
それでも、俺の子供なのか!≫
父の怒声が飛ぶ。
≪そんな事では今まで守って来た歴史も技も、ここで終わりだ!
お前はそれでいいのか。
技を託して来たご先祖様に申し訳ないと思わないのか!≫
そんな事は知らない。
他の子みたいに人形が欲しい。
可愛い服を着てみたい。
人を倒す技より、私は他の子と同じようにして遊んでみたい。
里琴は思うが口には出せず、一心不乱に技を繰り出し続ける。
≪それで全力なのか。
俺の跡を継いで行く者がそんなにも非力でいいのか!
足の使い方も甘い!筋力も速度も、全く足りていない!≫
汗が胴着を濡らす。
もうくたくただ。
水が飲みたい。
≪どうやらお前が技を使うにはまだ早いようだな。
基礎力を徹底して上げる事からやり直しだ。
走り込みをするぞ。終わったら水を飲んでいい≫
泣きたくなるが、ぐっと堪える。
何しろ貴重な水分を放出してしまう訳には行かないのだから。
里琴は走る。
全ては、家に伝わる武の存続のため。
そして自分が生きるため。
難しい事じゃない。
やるべき事はただ一つ。
父の期待に応えられればいい。
そうすれば自分の待遇は改善され、そのついでに少しばかりは強くもなれるんだ。
そう、少しばかりは強く。
強く、強く、強く……
里琴は脱水症状を起こし、倒れながらも一心に考えていた。
朦朧な意識の中でも、父の声が聞こえる。
まさか、心配してくれているのだろうか。
でも、まさか……
≪やはり女という生き物は駄目だな。
体が戦うように作られていないんだ。
くそっ。何で、男が生まれて来ない……
男さえ生まれて来れば、男さえ生まれて来れば……≫
横たわる里琴は、涙を流していた。
※※※
一瞬の邂逅。
繋がるような父の言葉と目の前にいる敵、宇野女。
里琴は歯を食い縛ると右足を一歩前に出し、踏み止まる。
「おっ!?耐えちゃうのかいっ」
既に勝った気でいる宇野女が笑う。
里琴は、抵抗するように右手に握りしめた短剣で突きを放った。
が、崩れた態勢から放たれる突きは思うような速度も出ず、
いとも容易く宇野女に手首ごと握られる。
「こう見えて俺も用心棒だぁっ。
刃物一つでビビる程、ヤワじゃねぇ。
だが、とりあえずコイツは貰ってー」
「嘘。死合にビビっている。だから刃物ばかりに気を取られる」
里琴がふっと小さく笑う。
すると、そのまま懐へ入り、身体を捻らせ回転させると、
回し蹴りの要領で宇野女の足を払った。
「おあっ!?」
短刀を封じ、気を抜いていた宇野女は避け切れずに足を掬われ、ついに転倒する。
里琴は、チャンス到来とばかりに握りしめた短刀ごと身体を前へと倒した。
仰向けに倒された宇野女は即座に両の足を浮かべ、
迎撃態勢を取るが、里琴はその小さな身体を半身にさせ、
滑るように股の間を縫って身体移動に成功。
冷たい殺意を乗せた刃を見上げる宇野女の顔色はさっと青くなる。
落ちる小さな身体。
短刀は今、重力に任せて宇野女の身体を貫こうとしていたー
「危ねぇなぁ」
低い声と共に里琴の体が止まる。
咄嗟に動いた男鹿は、里琴の腕を掴み、
重力に任せるままに落ちていく小さな身体を止めていた。
「さすがに殺しはいけねぇな、お姉ちゃん」
力ずくで腕を抑え込む男鹿は薄く笑いながら言った。
必殺の一撃を止められた里琴は憎々しげに視線だけを横に動かすが、
次の瞬間には仰向けになっている宇野女の蹴り上げを喰らい、悶絶する。
「はぁ、はぁ……こぉの、クソ女ァ!
ちょっとばかり優しくしてやりゃあ調子に乗りやがってェッ!」
短刀を取り落とし、踞る里琴へと宇野女の怒り任せの絶叫が浴びせかけられる。
「おい、宇野女。怒り任せに殺すなよ。
あくまでこいつは利用するだけだ。
わかってるだろ?相手はヤクザ者なんだ。
雇い主が負けた時のためのカードは持っておいた方がいい」
「……好きにすればいい。私に手を出した以上、どの道、あなた達に未来はない」
折れない里琴にぴくりと宇野女の眉がつり上がる。
「こんの、糞餓鬼がァァッ!」
怒声と共に力任せの蹴りが繰り出される。
踞ったままの里琴は、顔を覆うように両腕を上げ、受ける覚悟を決めた。
「……?」
急に辺りが静かになる。
繰り出された蹴りが来ない。
不審に感じた里琴は上げた腕の隙間から、辺りをちらりと横目で伺う。
見れば視線の先には飛ぶ男。
白目を剥いた宇野女が、物も言わずに宙を舞っている。
訳もわからず黒々とした丸い瞳を動かす里琴は、直感的に助けが来た事を確信した。
「勅使河原……!?」
呟きと同時に宙を舞っていた宇野女が大地に叩き付けられる音が響くと、
前を見る里琴は驚きの声を上げた。
「若頭!」
寂れた廃墟広場から続く林道外周部に里琴の声が響く。
人の匂いのしないその場所に似つかわしくない派手な深紅のスーツ。
紅の袖から覗く握り拳は、まるで岩石。
大きく、逞しい体と、疵だらけの顔は、
誰が見ても只者ではなく、男が渡って来た修羅の道を雄として物語る。
天堂組・若頭 九鬼 幸四郎。
裏社会に知らぬ者無しと言われる無頼漢。
その男は、生き死にの現場にあって、大木が聳えるように大きく、悠々と構えていた。
口を真一文字に結び、前を見据える九鬼は、
先ほど後ろから蹴り上げた用心棒が起き上がって来ない事を確認すると、
漸くその重い口を開いた。
「あ?」
短く呟く九鬼は突っ伏している宇野女の元へ歩を進めて行く。
「俺は蹴るのは得意じゃねぇんだがー」
やがて、失神する宇野女の元へ辿り着くと、
九鬼はその丸太のような腕を振り回し、鉄槌を与えるが如く、後頭部めがけて叩き下ろす。
めきゃりと頭蓋が粉砕されるような音が鳴るー
宇野女の四肢は一瞬、跳ねるような動きを見せ、そのまま動かなくなった。
静まり返る空気の中、九鬼は振り返り、男鹿を睨め付ける。
「もう逃げ腰かい、用心棒」
場を逃れていた男鹿は舌打ちしながら言った。
「若頭自らのご登場とは大袈裟なもんだな。
別に俺は、あんたらと戦争したい訳じゃないんだが……」
九鬼は葉巻を取り出し、火を点ける。
「うちの者に手を出しておいて、そんな言い訳が立つかよ」
「手を出すつもりなんてないさ。こっちは元々、殺すつもりなんてないんだ。
少しだけ遊んで貰いたかっただけだって」
男鹿の苦しい言い訳を聞くも九鬼の顔色は変わらず、
大きく開いた口から煙を吹き出し、葉巻を捨てる。
「だったら、俺とも遊んでくれよ」
九鬼は葉巻を踏み付け、構えも取らず歩く。
堂に入ったその歩調で、ただ前へ。
ずかずかと近寄って来る極道に危機感を覚えた男鹿は
自慢のトンファーを強く握り締めると迎撃の構えを取る。
ぱきりと小枝の折れる音が鳴ったー
無警戒に距離を詰めた九鬼が大きく振りかぶる。
構える男鹿は、その無遠慮かつ無警戒、そして隙だらけの姿に一瞬、目を丸くするも口角を上げる。
トンファーの射程圏内。
男鹿からすれば今すぐにだって、強打を浴びせる事は可能であった。
が、この大きく振りかぶった単純な殴打ならば、
拳を繰り出した瞬間に反撃を容易に合わせられる。
瞬間的な判断を下す男鹿はトンファーを握る手に更なる力を込め、目を見開く。
九鬼は、男の意図を知ってか知らずか態勢も変えないまま静かに呟いた。
「漢が武器なんか使ってんじゃねぇよ」
直後、噴火を思わせるような拳が放たれる。
大きすぎるその握り拳は、顔面を焼き付くさんとするかのようにして男鹿へと迫る。
しかし、来ると分かっている攻撃に合わせられない程、
用心棒を稼業としている者は甘くはない。
放たれた巨大な拳が届く前に、
トンファーによる正確無比な反撃は斜めから突き上げるように九鬼の顎を猛打していた。
「ーッ!?」
叩き付ける男鹿が青ざめる。
トンファーによる強烈な一撃は九鬼が僅かに動かした顎によって、防御されていた。
いや、防御というより、抑え付けるといった体でさえあった。
有り得ない。綺麗に合わせた。そんな事が可能なのか。
攻撃を成功させながらも男鹿は戸惑う。
振りかぶったままでいる九鬼は、やはり顔色を変える事もなく単純にして強力な一撃を繰り出した。
男鹿の正中線へと大噴火を思わせる拳撃が炸裂するー
喰らう男鹿は、弾けた風船のように飛んでいく。
受け身も取れず、大地に叩き付けられ、泥を舐める。
大の字になり、息も絶え絶えといった男鹿であったが、まだ意識はあるらしく何やら呻いていた。
九鬼は真っ直ぐに倒れ伏した男鹿の元へと歩み寄ると、屈み込む。
すると、その太い腕でトンファーを握り直させ、強引に立ち上がらせると言った。
「もう一回だ」
掴まれた男鹿は返事も出来ず、荒い息を放っているが、九鬼は意にも介さず睨みを効かせる。
「合わせたかったんだろ?カウンター。
もう一回やってみろ。これで終いじゃ、遊びにしたってつまらねぇ」
ほら、と言わんばかりに九鬼は自らの顔をぱんぱんと軽く叩いてみせると、
男鹿の虚ろな目が光り、あらん限りの力を振り絞った意地の一撃が放たれる。
ごりっとした固い骨を叩く音が立つ。
九鬼は二度、同じ箇所を打たれる格好となったが、やはり顔色は変わらない。
そればかりか、その顔は心底、つまらなそうな色さえ浮かべていた。
「この、怪物が……見届け人の件はどうするつもりだ。
中立の立場の者がやらなきゃ、お前ら組の者だって、格好が付かないだろうに……」
襟元を掴まれたままの男鹿が声を震わせながら言うと、九鬼はため息混じりに返した。
「女相手に得物まで出して、おまけに死ぬのは嫌だ、殺すのも嫌だと言う。
そんな外道にさえ成れない半端者を相手に面子も何もねぇもんだ」
言うが早いか九鬼は、強烈な頭突きを浴びせかけるー
大岩を叩き付けるような凄まじい衝撃音と共に男鹿の体が後ろへ反る。
九鬼は更に左の拳で追い討ちを決め、体ごと吹き飛ばすと、
ついに男鹿は倒れ伏し、物を言わなくなった。
見下ろす九鬼は、軽く鼻を鳴らす。
「トンファーなぁ。
ったく、色々考えるもんだが、お前よー」
ゆっくりと葉巻を取り出し、口に咥えると既に意識のない男鹿へと九鬼は続ける。
「よしんば、そんなモンで喧嘩を制したとしても……
お前、胸を張って勝ったって言えるのかい」
素手喧嘩に矜持を持つその極道は、物憂げな顔をしていた。
冷たい風は、ただ、木立を揺らしている。




