契約
「うんうん。そんな事があった訳ね。」
拘束を解かれた美姫は椅子に腰かけ、
テーブルを挟んで向かい側に座る男に嗚咽を漏らしながら語る。
ナメクジの苦味をたっぷりと味わった彼女は
自分の犯した過ちをすっかり白状していたのだ。
その罪の告白を聞いている男は薄ら笑いを浮かべながら相槌を打ち、
まるで慰めるかのように優しい声音で応えていた。
やがて男はふと、思い出したかのように喋りだす。
「あ、そういや自己紹介がまだだったよね。
わたくし、天堂組 若頭補佐の勅使河原<てしがわら>と申します」
男のその言葉を聞き、美姫は思った。
―やっぱりだ。本職が来たのだ。
でも、どうやって調べたのか見当が付かないし、
なぜ自分が狙われなければならないのだろう。
憔悴し切っている美姫は、すっかり観念したような表情を浮かべる。
それにしても―
掴み所のない男であった。
さっきまで平気な顔をして拷問を執行していたその男は、
今は不気味なくらいに穏やかな笑顔で話している。
それは、口調や態度だけでなく雰囲気や服装にしたってそうだ。
勅使河原と名乗った男は、
白のカットソーの上に黒のテーラードジャケットを羽織っていた。
スキニーのジーンズを履いた足は細く、長い。
整った顔立ちと流行りのマッシュ風にスタイリングされた髪は
清潔感と若々しさを感じられる。
年の頃は、一見すると二十代くらいにも見えた。
もしかしたら大学生と言っても通じるかもしれない。
とてもヤクザには見えない容貌である。
ここが小洒落たカフェか何かで遺恨も何もなかったならば、
きっと美姫は舞い上がっていただろうが
残念ながら目の前に佇むその男は、およそまともな人間ではなかった。
諦観の色に染まりゆく表情を見せる美姫に、勅使河原は続ける。
「自殺したあのお客さん、うちの上客だったんだよねぇ」
男は、溜息を吐き中空に目を遣った。
何のことはない。
あのアダルトビデオショップはヤクザ者が経営している店であったのだ。
その事実に呆然とする美姫に、数秒の間を置いての更なる口撃が繰り出される。
「うちの大切なお客さん消してくれた責任、どうやって取るつもり?」
―一撃目
「黙ってちゃあわかんないよ?」
―二撃目
「おじさんだって自分で稼いだお金で欲しい物買ってただけなのになぁ」
―三撃目
「人の家に土足で上がり込んで、お客さん浚って行きやがって」
―四撃目
「誘拐殺人だよなぁ、これって!」
―五撃目
女が話している間は穏やかであったはずの勅使河原が
捲し立てるように言葉を放ち、徐々に声を荒げていく。
今度は言葉責めの時間が始まったのだ。
続く詰問に美姫は黙っている事しか出来ずにいる。
―どうしよう。
どうしたらいいの。
助けて。誰でもいいから助けて。
諦観の色を見せていた美姫の表情がやがて戦慄の色に変質し始めた時、
勅使河原の口撃は収まった。
すると、テーブルの上に一枚の書類とボールペンがそっと置かれる。
「サインして」
再び口を開いた勅使河原の放った一言は落ち着き払っていたが、
酷く冷たい口調であった。
不穏な書類を前に冷や汗を流し始めた美姫を尻目に
勅使河原の取り巻きの一人と思われる雅史と呼ばれていた男は
室内を念入りに探索している。
今しがた箪笥から通帳と印鑑を持ち出したかと思えば、
今度は冷蔵庫の中まで漁っている。
「何にもねぇっスね。預金はたんまりだってのに冷蔵庫はすっからかんだ」
怒気を交えた声で言い、雅史は舌を打つ。
すると勅使河原は汚いものでも見るように美姫を一瞥して言った。
「お前、ここには殆ど帰らねぇんだな」
「わ、私も少し忙しくて―」
「半グレの彼氏クンと悪戯するのに?」
「貴仁の事は… そうだ、アイツがあたしに指示したんです。
絶対大丈夫だからって。
今までも色々な計画を立てたけど、それは全部貴仁が考えたんです。
本当はあたしも嫌だったけど、逆らえなかったんです」
手元の書類を眺めながらも多少の落ち着きを
取り戻していた美姫の目に涙が浮かぶ。
が、勅使河原の顔色は微塵も変わらない。
そればかりか訝しむような目の色をしていたが、それも刹那。
再び静かな声音で話し始めた。
「知ってる。でもね、だからこそこの程度で済んでるんだよ。
もしも君が主犯だったら俺らはもっと激しい折檻をしていたし、
事によれば命まで獲ってたと思う」
それを聞いた美姫は少しだけ安心し、物を考える余裕が出来た。
この男はきっと―
こういう言い方をするのなら、少なくとも自分を殺すつもりまではないのだろう。
すると制裁の内容は、この書類。
さっき目を滑らせて見たが、これは風俗店で働くための契約書だ。
これにサインしてヤクザ直営の風俗で働けと言っているのだろう。
性風俗で働くなんて死ぬ程嫌だが、自分は命まで取られる事はない。
そう考えを巡らせた美姫は僅かばかり安堵していた。
「一年でいいから」
勅使河原は続ける。
「一年だけ風俗で働いて慰謝料を払い切ってくれれば全て水に流すよ。
その代わり、貴仁君には二度と会えないと思うけど」
どうでもいい。
この期に及んでは貴仁の事など心底どうでも良かった。
第一、全ての元凶はアイツなのだ。
自分は計画を手伝っただけである。
貴仁があのジジイに暴力を振るっていた時だって、
自分は後ろで笑っていただけで手さえ出していない。
それにAVを買い漁っていた男は、あくまで自殺なのだ。
自分が直接殺した訳でもないし主犯は貴仁。
その貴仁も、おそらくもう生きてはいないだろうが自分には関係ない。
付き合う相手が悪かった。
今は自分の事だけ考えればいい。
一年。
それだけ我慢すれば、私はまた自由になれる。
自分はまだ若い。
少しばかりの時間を棒に振ったって、やり直しは利くだろう。
逡巡の末、意を決した美姫は白い書面にペンを走らせた。