救いの手
「まさかあの状況でここまで時間を稼がれるとは思わなかった」
「……っ」
乱暴に髪を引っ張られ、無理矢理顔を上げらせられる。耳の後ろに痛みを感じながらニルスを睨むが、暗く底知れない瞳に覗き込まれ息を呑む。
「へぇ……まだ睨む気力があるとは。あの化け物の孫娘なだけはあるか」
短剣はなく、利き手は負傷し、打開策もなく、ある程度の時間は稼いだが、助けが来るのを待てるほどの余裕はない。
「この髪とその目の色でなければ、本当にこれが貴族の令嬢なのかと疑っているところだ」
生殺与奪権を握られているときは、相手を刺激せず、侮られないよう、どう動くのが最善か頭を絞れ。
「この髪を切って、ランシーン砦に送ってみようか」
相手が挑発してきたとしても自暴自棄にならず、冷静さを保つこと。情報を与えるときには、真実に少しの嘘を混ぜろ。これらは砦でニック大佐から応急処置を習っていたときに、繰り返し言われていたこと。後方支援である軍医や衛生兵は敵に狙われることが多く、捕まったときは抵抗せず自身の命を最優先に行動するからだ。
軍には入らず、戦場に立つこともない私に必要な知識だと言いながら、事あるごとに口にしていたニック大佐に感謝しなければ。
「動じないな」
「……」
「軍事貴族とは皆こうなのか、それともお前が特殊なのか」
「……」
「黙ったままではつまらないのだが」
反応がないことに飽きたのか、至近距離から私を観察していたニルスは顔を上げ、私の背後へと視線を投げ「では」と口にした。
「お前達はどうする?代わりに捕まったこの哀れな令嬢を捨て、二人で逃げてみるか?」
端からニルスの標的はシルとセヴェリだ。二人の命を狙って自らの足で出向いたのだから、目的を達成することが最優先だろう。私にはフィルデ・ロティシュの孫娘という価値があるので、今直ぐ命が脅かされることはない。だからここは私を捨て逃げるのが正解だが……。
「私がそちらへ行きますから、彼女を離してください」
「この子が自身やディックよりも大切なのか?」
「……」
「どうせお前達は捕まるのだから、これを離す必要はない」
「もうすぐ、此処に軍学校の教員が来ます」
「期待するのは勝手だが」
「期待でも虚勢でもないと、気付いたときにはもう遅いと思いますよ」
どこか余裕のありそうなシルの態度に眉を顰めたニルスは、空いている方の手で側に立つドアンの胸元を掴み、低い唸り声を上げた。
「ドアン……教員が来られないよう細工をしたと言っていなかったか?」
「ぐっ、飲み水に薬を入れたので……火の番をしている教員達がっ、起きることはありません。ただの脅しです」
「確か班で行動していると言っていたな。これで全員なのか?」
「っ……もう、一人いました」
「そうか。それならシルヴィオが言っていることは、嘘ではないのかもしれないな」
ドアンの胸元から手を離したニルスが、シルに向かって「それで?」と冷笑する。
「教員が此処に来る前に、目的を果たしたほうがいいのではありませんか?」
「暫く会わないうちに随分と甘い人間になったものだな。だが、お前に付き合うのもそろそろ飽きてきた」
髪を掴まれたままシルの方へ向かされた私は、真っ青な顔で唇を噛み締めるシルとセヴェリに「逃げろ」と口を動かすが、小さく首を横に振られてしまう。
「短剣を捨てこちらに歩いて来い」
「先に彼女を離してください」
「何故?」
ふっと鼻で笑ったニルスが再び勢いよく私の髪を持ち上げ、上半身が宙に浮く。頭皮が引っ張られる痛みに呻けば、シルとセヴェリの顔が歪んだ。
「ニルス兄上!」
「そんなに大切にしているのであれば、巻き込むべきではなかったな」
「話が違う……!」
「そう喚かれても、私がいつお前の提案を受け入れた?いまこの現状で、お前が私に指図できる立場ではないと思うが?」
「……っ」
「早くしないと、この綺麗な髪が千切れるぞ?」
「クソ野郎がっ!」
「言葉遣いが悪いのは相変わらずだな。ドアン、迎えに行ってやれ」
苦しげな表情を浮かべるシルのもとへ向かったドアンを横目に、太腿へ左手をそっと下げる。血の繋がった弟が苦しむ姿を楽しそうに眺めているニルスに吐き気がしながら、目的の物を手に取り、痛めている利き手でひとつに結わいてある自身の髪を掴んだ。
「セヴェリ……シルを守れ!」
そう叫びながら左手に持つ試作品の短剣で髪を切り、即座に立ち上がる。
「お前……がっは……!」
私の髪を手に持ち目を見開くニルスの顔を、短剣の柄頭の部分で殴り駆け出す。シルに向かって手を伸ばしていたドアンが振り返る前に、彼の肩へ短剣を突き立てた。
「なっ……!?」
「シル、拾え!」
肩を押さえ蹲るドアンの背を蹴り飛ばし、彼が持っていた長剣を奪いシルの前に放り投げた。夜明けが近いのか周囲は明るく、今森の中に逃げたとしても直ぐに捕まってしまうだろう。下手に動き回れば教員達が私達を見つけられないだろうから、ここで応戦して助けを待つしかない。
「セレス……髪が……」
「髪なんてあとで生えてくる。それよりも今は、生き残ることだけを考えろ!」
剣を拾い抱えるシルを叱咤し、短剣を二本持ち構えるセヴェリに眉を顰める。
「二本扱えるのか?」
「数は多ければ多いほど有利だ」
「……既に腕と剣身の長さで不利だと思うが」
短剣二本と長剣一本。それとレナートから預かった試作品の短剣。かなり心許ないが、これらでフィンが戻って来るまでの時間を稼がなくてはならない。
「此処で派手に応戦していれば、助けに来た教員が気付く筈だ。腹から声を出せ」
「長剣があとひとつは欲しいところだが」
腕を負傷している騎士を見ながら口にしたセヴェリは、その騎士から剣を奪う気なのだろうが、ドアンと腕を負傷している騎士はニルスの側に付き、一番体格のいい騎士が剣を抜いた。
「あれを突破して剣を奪ってくる自信は?」
「ない」
「私も無理だぞ?右手が使い物にならないからな」
「折れているのか……?」
「恐らくは」
私とセヴェリの会話を黙って聞いていたシルから、ヒュッと息を吸い込む音が聞こえ「動きはする」と手を振って見せた。
少し動かすだけで痛みはあるが、今は手が痛いと弱音を吐いている場合ではない。顔を片手で覆い唸り声を上げているニルスも、体格のよい騎士も、私達を生かして帰すつもりはないのだから。
「来るぞ」
「私が前に出る。セヴェリはシルを……シル、剣を寄越せ」
「でも、セレスは手が」
「そんなに震えていて剣が振れるわけがないだろう。いいから渡せ。この中で一番動けるのは私だ」
「セレス……!」
シルから奪うように剣を取り上げ、代わりに試作品の短剣を胸に押し付けた。
セヴェリに視線で合図を送り、私からもニルス達からも離れた場所に移動させ、こちらに向かって来る騎士へ剣を構えた。
「……ぐっ、うっ」
上から叩き潰されるかのように振ってきた剣を受け止め、痛みに悲鳴を上げる右手に力を入れて歯を食いしばる。
御爺様よりは遅く、軽い剣。叔父様よりも分かりやすい軌道。こんなところで砦で訓練していた経験が役に立つとは、あの頃は想像すらしていなかった。
「っ、は……!」
腕が痺れ、避けそこなった剣先が頬を掠り、右手の痛みに眩暈がする。
背後に飛び距離を取って息を整えていれば、セヴェリとシルが肩から血を流すドアンと応戦している姿を視界の端に捉え、目の前の騎士から意識をそらしてしまった。
「ちょこまかと、そろそろ諦めろ!」
力任せに振られた剣を受け止め損ね、地面に転がった私の頭上で、陽の光に照らされた剣先が光る。ゆっくりと振り下ろされる剣を見つめながら、もう駄目かと覚悟を決めれば、私の名を叫ぶシルの悲痛な声が聞こえた。
「これで終わりだ……っ」
目を閉じずにいた私のすぐ横を剣先が通り過ぎ、地面へと突き刺さる。
剣から手を離し真横へ倒れる騎士の首元には、ナイフのような鋭利な刃物が刺さっていて、訳が分からず呆然とする私は、背後から抱き締められていた。
「馬鹿だなぁ。そんな軽装備でくるからだよ」
小馬鹿にしたような声が耳元で聞こえ、ゆるゆると顔を上げた。
「……ダン?」
「お待たせ。よく頑張ったな、偉い、偉い」
「どうして、ダンが?」
「俺だけじゃないよ。ほら、あそこ!」
ダンが指差した先には、シル達を庇うように前に立つリックさんと。
「私の生徒達に、何をしてくれた?」
ニルスの首元に剣を突き付けているツェリ教員がいた。




