29番 松井 真斗
松井 真斗:軟式野球部員。恋愛小説が大好き。
「これ読んでみな」
彼が恋愛小説が好きと知った父が、本棚の奥から古い本を引っ張り出してきた。しかも八冊。有名なライトノベルのレーベルで、「親父がラノベ?」と不思議に思ったが、ちょうど読む本がなかったので読んでみた。
橋本紡『半分の月がのぼる空』(電撃文庫)
題名だけは知っていた。一巻は「ふぅむ」という感じだったが、二巻以降は一気に引き込まれ、六巻を読み終えたときには、彼は感涙にむせんでいた。
「め、名作や……これ、名作やぁ……」
ネットで調べて、この作品がライトノベルでは唯一、漫画・ドラマCD・アニメ・実写ドラマ・実写映画の五分野で作品化されていると知り、さらに父が貸してくれたのが「オリジナル版」であり、後にリメイクされた「完全版」があることも知った。
「ちくしょう、俺はなぜもっと早くこの作品を読まなかった!」
第一巻が出版されたのは彼が生まれる前。古い本であり、近年は駅前の大型書店ですら置いていないから、手に取る機会がなかったから仕方がないといえる。
だが、それでも、今まで知らなかったことが口惜しい。
「僕たちの両手は、欲しいものを掴むためにある……かぁーっ、泣ける! 震える!」
ああ恋がしたい。俺もこんな恋がしたい。自分の全身全霊をかけて、人生を賭けたっていいと思える相手と、ガチでマジで真剣な恋がしたい。
そしてこの両手で、しっかりと恋人との幸せをつかみたい!
「親父ぃーっ!」
彼は強烈な思いに駆られて部屋を飛び出し、父がいる居間へ飛び込んだ。
「読んだぞっ! これ最高だ!」
「そうだろ?」
父がニヤリと笑い、「ほれ」と居間の隅の机を指差した。
「ををっ!」
そこには、『半月』と題された画集と、ハードカバーの絵本のような本があった。
「画集は最後にな。特にそこに載っている短編は、一番最後に読むことをオススメする」
「感謝!」
「完全版もあるぞ。読みたければ後で貸してやる」
「多謝!」
彼は新たな二冊を手に取ると、「よっしゃあぁぁ!」とガッツポーズをして部屋へ戻って行った。
──そんな息子を見送った彼の母が、「あなたの子ねえ」と呆れがちに肩をすくめた。
「そんなに面白いの、あれ?」
「お前の趣味には合わないだろうねえ」
父が恋愛物や青春物。母が推理物やロボット物。「普通、逆じゃね?」と言われるが、それぞれそちらが好きなのだから仕方ない。
「この歳になって読むとな、いつ終わるかわからない幸せを噛み締めて懸命に生きる、その切なさに泣きそうになる」
「ふうん、そういうものなの」
あくまで個人の感想だがね、と笑う夫の隣に座り、彼の母はにこりと笑う。
「でもまあ、この歳になるとわかる、というのは同感かしらね。死ぬということが、おぼろげながらに見えてくるし」
「そうだな」
「まあ、それはそれとして」
彼の母は天井を見上げ、その上の部屋にいる息子を思う。
「小説を読むだけじゃなくて、本当に恋愛をして欲しいものだけど」
「彼女連れてきたら、盛大に冷やかしてやるがなあ」
さてその日はいつになるのやら。
彼の両親は仲良くため息をつき、入れたてのコーヒーをゆっくりと口に運ぶのだった。




