第五十七話 1915.1.4-1915.1.30 仕事始め
年が明け、仕事始めを迎える主人公です。
1915年1月4日、俺の会社は今日から仕事始めだ。
日本だと三が日は普通休みである事が多いが、英国では休みは元旦のみで、日本の様に新年を特別に祝うという事はあまりしない様だ。英国でも地域によって習慣は異なるそうだが、元旦は家族でのんびり過ごすというのが一般的らしいな。
逆に大いに祝うのがクリスマスだ。
そういう習慣の違いもあって、英国では元旦は休むが二日からは普通に仕事が始まる場合が多く、うちの様に三日まで休みと言う所は珍しい様だ。
うちの会社が何故三日まで休みにしているかというと、まあ俺が日本人だから正月三が日は休みというイメージがあるというのもあるが、実の所は社員に少なからぬ人数の日本人が居るからだな。
日本人に正月二日から仕事をしろというのも、郷に入っては郷に従う日本人とはいえ、日本人が経営者をやっている会社なのに二日から働かせるのか、という文句が出そうで面倒だからだ。まあ日本での世間体も悪いからな。
日本でうちの社の日本人社員達に、乃木の会社は正月なのに二日から働かせる酷い会社だ、などと噂を立てられては、今後日本から人材を呼びにくくなる。
そんなわけで、うちの会社は三日まで休みだ。社員からは休みが長いからと言って文句が出るわけもなく、休みの多い良い会社だ、とそういう評価になる。
この時代は、後に長い有給休暇が与えられる英国とはいえ、有給休暇を与えている企業はまだそれほど多くは無く、それらは第一次世界大戦の間に労働者の地位が向上する事によってその辺りの制度も充実していくようになる。
もっとも、その契機が戦時中の軍需物資大増産によって長時間労働休日労働が常態化し、超過労働が酷くなるにつれ、労働者の健康面が憂慮される様になった末での話だ。
この世界ではどうなるかはわからないが、前世の英国では本格的な兵力の総動員が始まると、工場で働く男たちが根こそぎ戦地へと行くことで深刻な人手不足となり、その穴を女性や低年齢者が埋める、という事態が発生していたのだ。
そんな経緯もあり、戦中そして戦後、頑張った労働者たちに報いようという機運が高まったのと、共産系の労働運動で労働者が声を上げるようになり、労働者の権利がそれ迄より格段に認められるようになった事で、工場労働者の大幅な賃上げや労働時間の短縮、そして有給休暇が与えられる様になったわけだ。
そういう意味では、うちの会社の社内制度はかなり時代に先駆けている状態ではあるな。
さて、去年の末に航空機部門にテコ入れする事を決めた訳だが。
まずは爆撃照準装置に手を付けるべく、年末年始に色々と調べたり考えたりして一先ず動き出す事にした。
うちの電子部品を手掛ける英国半導体製造会社立ち上げの際にいくつかの企業を買収したが、その中の一つにコンデンサーのメーカーである電信コンデンサー社(TCC)という会社があった。普通に取引先の一つとしておいても良かったのだが、うちの会社で使うコンデンサーは新規で開発する必要がある様な物や特殊な物が多く、その場合ゼロから内部で開発するのは不可能では無いが、コストと時間が掛かるのは確実だ。
その頃、既に戦争が目前になっていて開発に時間的余裕が無い事もあり、また何より機密保持の面も考えた場合、中で持っておく必要があったので、既存の会社を買収する事にしたわけだ。
そのTCC社は1906年に設立した英国では既に実績のある会社で、豊富なノウハウがあり、まさに得難い会社であったわけだな。
TCC社の社長は米国生まれ英国育ちのシドニー・ジョージ・ブラウンという電気技術者だが、既に幾つもの特許を持っている優秀な発明家でもあり、また自身の二つ目の会社として、自分の名を冠したSGブラウン社という色々な機器を開発製造する会社も経営していた。
わかりやすく言えば、どちらも〝彼自身が作りたい物を作る会社〟という訳だな。
TCC社は買収したが、ブラウンを排除した訳ではもちろんなく、むしろブラウンごと取り込んだと言った方が早い。
話は戻るが、爆撃照準器の開発を考えた時、まずはそれの主要パーツの一つを確保する必要があった。つまりは爆撃照準器の核とも言える、高性能なジャイロスコープが必要だった。
勿論、この時代の飛行機にはまだ搭載されていないが、いずれ航空機にもジャイロスコープコンパスは必要となるので必需品といえた。
この時代のジャイロスコープというと、まずはドイツ製、そして前世の帝国海軍でも導入した米国のスペリー・ジャイロスコープ社が有名だが、確かスペリー社は英国にも英国海軍向けのジャイロコンパス製造工場があった筈だ。
ところでスペリー社は言うまでも無く前世でも、合併してユニシス社とはなったが、後の時代にまで続く優良企業なので、オールズに航空機製造会社の方から投資を頼んでいる。
ただ、基本的には米国企業であり米軍が主たる顧客なので、ここに何か頼むと技術や情報が全て米軍に流れていくことになる。
そうならない為には当然ながら自社で作る必要があるのだが、英国に独自のジャイロコンパスを開発している会社が無いものかと調べたところ、残念ながら現時点ではめぼしい会社は見つからなかった。
ただ俺には、確か英国にもジャイロコンパスを開発していた会社があった筈だ、と言う前世の記憶があり、この年末年始に色々と資料を眺めながら思いを巡らせていたのだが、漸く思い出したのが、TCC社の設立者であるブラウンの会社であるSGブラウン社だった。
SGブラウン社はヘッドフォンやラジオ、増幅デバイスなどを作っている会社なのだが、後にドイツ製のジャイロコンパスを元に英国で改良して製造する会社なのだ。
現時点ではまだヘッドフォンを英軍に納品しているだけでジャイロコンパスは手掛けていない。
それを思い出して、年始早々にブラウンに会いに行ってジャイロコンパスの話をすると、非常に興味がある、という返答だった。
そこで、俺が資金を出すからとブラウンにジャイロコンパスとその関連装置の開発を任せることにした。
頼んだのは航空機用のジャイロコンパス、それにその応用機器の爆撃照準器だ。
爆撃照準器に組み込む機械式計算機は、その道の専門家であるトーレスに用意してもらう事で話を付けた。
将来的には光学的要素も加えたノルデン爆撃照準器レベルの物が欲しいが、その為には自動操縦装置を開発する必要がある。
とはいえ、全ての情報を最初から出すという事は当然ながら避ける。まずは必要な物から情報を開示して開発していくべきだ。
いずれにせよ、ジャイロコンパスや射爆照準器の開発にはしばらく時間がかかるだろう。
そして年末に検討していたもう一つの要素は、機体に爆弾等の重量装備を安全に、且つ迅速に取り付ける為のカートだ。
一つは、完全に人力で動かすタイプの物。戦場では常に電源や動力が確保できるとは限らないからな。
もう一つは、設備の整った飛行場や空母で使用する為の物。
人が操縦して動かし、油圧で持ち上げたり下ろしたりする。
可能であればモーター駆動が良いんだが、この時代のバッテリーというと所謂鉛蓄電池で、前世の俺の時代でもまだ使われている位だから方式的には良いんだが、前世の俺の時代のバッテリー容量に至るまでには長い改良の歴史があった訳で、この時代ではまだそこ迄性能が良い訳では無い。
それに軽便性を考えれば操縦は簡単な方がよく、それを考えてもやはりモーター駆動が一番だ。ギアボックスとかを考える必要が無いからな。
取り合えず、一先ずは普通のモーターカート仕様で考えて、もしもバッテリーで難儀する様なら次の手を考えるとするか。
1915年は俺が記憶するところでは、前年末に引き続き膠着状態から始まる訳だが、春先にヌーヴェ・シャペルの戦いと呼ばれる攻勢があった筈だ。
仏第十軍がヴィミー・リッジとアルトワ高原に対して攻勢をかけ、それに連動して英軍も植民地軍であるカナダ、印軍と共にヌーヴェ・シャペルという名の村周辺でドイツの防衛ラインを突き崩すという攻勢を掛ける。
そういった戦いだった筈。
史実では攻勢は初期には成功するが、直ぐに独軍の強固な塹壕陣地を攻めあぐね、その強固な塹壕陣地を攻略する為に砲弾が枯渇する程の砲撃を加えたが、結局は部分的な戦果に留まり、またその部分的な戦果も拡大する事は出来ず、結局は双方に万を超える戦死者を出して攻勢は中止となった。
この戦いでは、英軍側は植民地軍も含めて精鋭と言っていい水準の部隊で攻勢を掛けたが、片や独軍は主戦場を東部戦線と定めて主力を東方へ移しており、その為この地方を守備していたのは、実は新兵などが多く含まれる予備師団だった。
しかし、弱体戦力と思われた独軍の塹壕陣地は連合軍の塹壕陣地と異なり、要塞と言っても差し支えないレベルに迄完成されており、英軍の各種口径の砲撃など物ともせず、その強固さは英軍の攻勢を頓挫させる程であった。
西部戦線では、独軍攻勢の場合は戦車が無くとも連合軍の陣地を突破前進出来たのに対し、連合軍攻勢の場合は戦車が無ければ独軍の陣地を突破する事が出来なかった。
後の時代の分析では、その要因は多分に塹壕の堅牢さ、完成度だろうと言われている。
実際俺も写真で見た事があるが、連合軍の塹壕は急ごしらえ感が拭えないが、独軍の塹壕はさながら永久陣地の様な完成度だったのだ。
しかしこの世界では日英両軍には既に戦車があり、決戦の時を待っている状態だ。
早ければそのヌーヴェ・シャペルの戦いで戦車が使われる可能性があり、また皇国の欧州派遣軍もその戦いが欧州での初陣となる可能性があるので、少々の不安もあるが、今からその活躍を聞くのが楽しみである。
この年も色々と忙しそうな主人公です。