閑話一 明治42年7月(1909.7) 伊藤博文
伊藤博文視点の閑話です。
明治42年7月(1909.7) 伊藤博文
日露戦争以降、ポーツマス条約締結後高まる国内不満や景気の低迷、膨らみ続ける外債など、正直なところ我が国の経済は危機に瀕している。
そんな折、乃木君の子息が陸大で面白い話をしているという話を聞いた。
なんでも経済的見地から考える安全保障という新しい考え方らしい。
日本ではまだ経済学は研究の緒に就いたばかりで、経済学的見地から安全保障を考えるなど聞いたことも無い。
我々の常識では安全保障とは軍事力を背景にした外交で構築するものであるからだ。
だが、皇国中から俊英たちが集まる陸大で話題となるほどの話ならばいい加減な物ではあるまい。
そう考えて、どんな考えなのか聞きたくて手紙を書いたのだ。
程なく返事が届き、早速と読んでみればいちいち当たり前の事を述べているだけなのだが、そういう考え方自体が発想になかった。
乃木中尉が論ずる所の我が国の安全保障は、基本的には他国を如何に絡めてその経済や軍事力を我が国に利するか、端的に言えばそういう考え方であった。
彼はポーツマス条約を結んだ対露交渉は失敗だったといい、失敗点が列記されていた。
彼曰く我が方の日露交渉は交渉が始まる前に既に負けていたのだという。
この様な視点から物を考えた事も無かったが、小村君は米国の新聞社の取材を拒否したことにより、自ら米国の新聞社、つまり米世論を味方につける事を放棄し、その結果欧米全体の世論をも味方につける事が出来なかった。
その点、ロシアは米国や欧米諸国の新聞社の取材に積極的に応じ、周到に何度も記者会見や説明会を開くことで、すっかり欧米世論を味方に付けていたというのだ。
その結果、本来であればこれまでのロシアの拡張主義をこの機会に抑え込みたい欧米諸国は日露交渉でロシアに圧力を掛け日本に有利な交渉が出来たにも拘らず、逆にロシアが同情心を集めてしまい、台頭著しいアジアの新興国日本に対し警戒心を植え付ける事に成功していたのだという。
まったく。
そんな事になっていたなどと、儂は勿論桂君ら政府首脳陣は知らなかったぞ。
そして、ハリマン協約を破棄した事で米国は日本を明確に警戒する様になったという。
乃木中尉の論によると、もし満州に米国の資本が多く入った鉄道が出来たなら、それを入口として米国企業など米国資本が多く参入しただろう。
欲張ってここで米資本を排除したことで満州の開発は事実上日本単独で行わなければならず、膨大な資本と人的資源を投下しなければ満州の権益が見合う利益を生み出す事は無い。
しかし、日本にはそもそも満州を有効活用できる資本力も技術力も無いのだから、国内経済をよりひっ迫させる事にしかならない。
だから、米国を参入させておけば先の通り米企業が多数参入するのだから、当然米人も多く移り住み、米人の為の街だって出来るだろう。
しかるに、彼らの安全を保障する能力は中国には無く、また日本は可能ではあるがそれを実現するためには日本から然るべき規模の軍を派遣するしかないが、米人を守るために我が皇軍の血を流すのかという議論に必ずなる。
結局は米国が自ら米国人保護の為に軍を駐留させる事になり満州は米国が守る事になる。
つまり、満州で如何なることが起きようと、米国が米国企業や米国人を守るため、自らの軍隊で守るであろうから、日本がそこに膨大な費用が掛かる軍の駐留をする必要は全く無い。
それに日本は中国に比べれば政情は格段に安定しており、また人件費も米国に比べれば遥かに安い。
満州を米国の資本と技術で開発させ、同時に米国企業を日本に誘致し工場を建設させることで天然資源を満州から日本に運び、日本で低コストで工業製品にして米国など欧米に輸出する事で欧米企業は大きな利益を上げることが出来る。
日本は欧米企業の生産拠点を引き受けて環境と人的資源を提供する事で、雇用を得て更に欧米の先進技術を蓄積することが出来る。それも、欧米企業の費用で。
こうすることで、米国企業にとって日本は利益を得る上で重要な国となり、必然的に米政府も日本を敵視し敵対するような事は減る。そのような事をすれば米国企業は大損害を被るからだ。
国民によってえらばれる米国大統領はそれを無視することは出来ない。
つまり、こうやって日本を敵視出来ない環境を作ることが経済的視点からの安全保障構築であるという。
儂は手紙を読み、これを進める事でひっ迫する皇国経済を立て直し、安全保障を構築することが出来るのではないかと思えて来た。
一度会って直接話を聞いて見なければと、そう思ったのだ。
その後、内地へ戻る用事が出来た時、時間を作って会うことにした。
当日、指定した料亭を訪れた乃木中尉は若いころの乃木大将の面影のある青年であった。
「わざわざ呼び立てて済まぬな。
手紙を読ませてもらって、一度会って話を聞かねばと思ったのだ」
「いえ、こちらこそ。
閣下と直接お会いする機会を与えていただき、感激しております」
乃木中尉は日露戦争に出征し重傷を負い、その際に記憶喪失になったと聞くが、受け答えに違和感はない。
「うむ。
中尉が陸大で発表した論文も読ませてもらった。
どれも斬新な発想で陸大でも話題になっているそうだな。
あのような論文を書く中尉ならば我が国の状況をかなり把握しているのだろう」
「経済的にかなり厳しいと愚考します」
「その通り、日本は先の日露戦争で莫大な費用を使い、外債は膨らむばかり。
税金を上げるにも限度があり、国内の景気は落ち込み、不満が高まっている。
論文はこれらの状況を改善する一つの方策であると見た。
だが、語られているのは満州を例に挙げた一例に過ぎない。
中尉はどうすべきだと考える?」
中尉は少し考えると話し出した。
「小官が愚考しますところ、我々は大陸から手を引くべきだと思います」
日露戦争で実際に戦った軍人とは思えぬ発言に儂は唖然とした。
「…何故だ。
皇国は日清、日露と夥しい将兵を戦場に散らしている。
にもかかわらず、それらを放棄しろというのか?
戦場に散っていった英霊たちはそれでは浮かばれぬのではないか?」
「閣下、我々が流した血は無駄にはなりません。
皇国が今後欧米に伍する為にも必要な犠牲だったのです。
我々は日清日露の二つの戦争で、大国の清を打ち負かし、更に欧州の超大国であるロシアに一先ずは打ち勝ち講和をもぎ取りました。
その結果、欧米諸国が我々を見る目は明らかに変わったのです。
やっと、彼らと伍せる国であると認められたのです」
「確かに…、そうかもしれん。
だが、それでは臣民は納得すまい」
「閣下は、日露戦争の外債をこのまま返済し続けるとどうなるか考えた事がありますか」
「どうなるというのだ」
「返済が終わるのは82年後。
皇国はこの先、それだけの期間巨大な足枷を引き摺りながら国家運営していかねばならないのです。
外債には当然利息が付きます、返済の期間が長くなれば長くなるほど膨れ上がるのです。
82年も掛けて返済したら、それがこの国にどれ程の経済的足枷になるか閣下ならばすぐに理解できるかと思います」
「その通りだ…。
元々、外債は賠償金で返済するつもりだった。
しかし、82年だと?そんなに掛かるのか?
それにどうしてそんなことがわかるのだ、まるで未来を見てきたように話をする」
「閣下、私が未来を見てきたと言えば信じてもらえますか?」
「…馬鹿な事を。
世迷いごとを聞くために時間を取ったわけではないぞ」
中尉は鞄から冊子を取り出すと渡して来た。
「閣下、私が見て来た未来を簡単にではありますが年表として書いてきました。
などと言っても、信じては貰えないでしょう。
閣下、物事は数字や情勢を積み上げていけば、ある程度先は見通せるのです。
小官が書いた論文の経済的見地から考える安全保障の例に挙げた満州の権益。
それを米国を排除した今の状態から様々な統計や情勢から積み上げた推論がその年表だと考えて一読頂ければ」
笑えぬ冗談だが、冗談なのか?
兎も角、小冊子を読んでいく。
そして一通り読み終えると、ため息が出た。
最終的に日本は孤立し米国と戦争して敗北、全てを失い国迄歪められるのか…。
そして、その転機となったのが満州からの米国の排除か…。
米国は建国二百年の新興国ではあるが、既に日本とは比較にならない程の経済規模を持つ。
その米国と戦争などすればどうなるのか、今からでも容易に予想が付く。
ロシアが日本と講和したのはロシアの国内事情だという事は既にわかっている。
それが無ければ日本はロシアの大軍相手に大敗しまともな講和も結べなかったかも知れぬ事もな。
結局、ロシアにとっての勝利は大陸から日本を完全に排除する事であるから、陸の戦争ですっかり日本を大陸から駆逐すれば海戦でたとえ負けていたとしても、負けにはならぬのだ。
更にこの小冊子には、日露戦争における日英同盟が果たした役割、そして遠くない将来日英同盟が終了し日本は急速に孤立化を進めて行くと書いている。
欧米世界において日本がやっていくための保証人が日英同盟であり、ある意味日本の生命線ともいえるのか…。
結局、日本は苦しい国家経済の中、無理を重ねて大陸に固執し半島や満州ばかりか中国全土に夥しい資本と人的資源を投じ、その事で日本は孤立を深め結局全て失うと乃木中尉は予想している。
ならば、最初から大陸に進出しなければ米国と戦争になる事も無く、敗北する事も無い。
小村の決断は勇ましい決断であったが、長い視点に立てば失敗だったと…。
「中尉の推論を読ませてもらった。
未来を見て来たかどうかは兎も角、我が国に起こりえる可能性の一つとして儂もあり得ると思えた。
現実に、このまま積み重ねていけば、このような未来があるのかも知れぬ」
「はっ」
「ならば問う。
我らは、皇国は如何すればいいと考える」
「小官は満州と半島は英国か米国に、その権益を売却、或いは長期で租借させるべきかと愚考いたします。
それで得た資金で、直ちに外債を返済し、資金が残れば東北など国内のインフラを整え、米国など外国企業の工場を誘致すべきです。
それにより、国内に雇用が産まれ新たな雇用により生み出されたカネが国内を還流する事で国家経済を立て直すことが出来ると愚考します。
そして、国内に雇用が生まれる事で貧民と金持ちの間に立つ中流階層が形成されて行くのです。
その中流階層が厚くなればなるほど、我が国の国家経済は盤石となる。
小官はそう愚考いたします」
目から鱗とはこの事か。
乃木君もとんだ傑物を産んだものだ。
早速、今日の話を皆で話し合わねば。
韓国統監は儂で最後にするぞ。
「中尉、今日の話は大いに参考になった。
また機会があれば話を聞かせてくれたまえ」
「はっ。
小官の為に時間を取っていただき感謝いたします」
こうして、儂はその日のうちに西園寺君や桂君を呼び出し会合を持った。
そして、今日の事を話した。
二人とも話を聞いたときは儂と同じ反応を見せたが、良く話をすれば理解してくれた。
先の総理大臣を務めたのが西園寺君で、今総理大臣を務めるのが桂君だ。
政党は異なっても、問題は共有している。
これらを一気に解決することが出来るのだ。
我々は早速実現の為に根回しを始め、賛同を集めると半島の権益は全て英国に売却。そして、満州の権益は全て米国に売却した。
ポーツマス条約や日露協商に抵触する可能性もあったが、その辺りもうまく胡麻化した。
結果として、我が皇国は三十億円もの資金を獲ることが出来た。
我々が欲していた賠償金の目標額そのままだ。
そして、対英、対米関係も一気によくなった。
国内には強硬に反対する者も出たが、大多数の臣民は今回資金を獲る事で外債をすべて返済し身ぎれいになった事を歓迎した。
そして、桂君が矢継ぎ早に発表した経済刺激策に夢を抱いた。
乃木中尉にも意見を聞き、国内に米国企業などを誘致する為の環境を整えると、日本進出に手を上げる企業が幾つもあった。
日本国内での様々な民生品の需要拡大が今後見込まれ、有力市場と有望視されたのだ。
僅か一年余りの期間で皇国は大きく舵を切ることになったが、最後にいい仕事が出来たと思う。
日本は大陸から完全に撤退した。
実際に撤退してみれば如何に日本が身の丈に合わない事をしようとしていたのが見えて来る。
あのままあの道を進んでいれば、あの小冊子に書かれてあった歴史を歩んだのかも知れぬな。
儂は半島での仕事を終え再び皇国へと引き揚げ、これからは元老として最後の奉公だ。
半島の未来は英国に委ねられた。
自重を知らない主人公は色々とやらかしてます。
乃木大将の息子という立場は中々強力です。
今作の世界では、日本は大陸から撤退ルート突入です。
そして、伊藤博文も凶弾に倒れる事なく生き残りました。