第二十六話 1913.4-1913.5 ソ連邦英雄
ソ連邦英雄の登場です
1913年5月、ロシアの陸大で講演した三日後、大使館に探してもらっていた人物の店を訪ねた。
訪ねた相手はモスクワで毛皮職人をやっているミハイル・ピリキンの店。
この店は毛皮を含む皮製品を一通り扱っている店らしい。
ピリキンは俺が用事がある後のソ連邦英雄の母方の叔父で、ソ連邦英雄は兄弟と共にこの叔父の下で毛皮職人の修行を行っている。
ちなみに、ロシアはこの時期経済的失敗もあって、商人であっても必ずしも暮らし向きが良いわけではなく、ピリキンが経営する小さな店ならなおさらだろう。
最も、来年欧州大戦が勃発すると革職人などは戦時特需で大忙しとなるのだが。
「ピリキン、私は日本陸軍中佐の乃木という」
東洋人が訪ねてくること自体珍しいが、乃木という名前は知っていた様で、驚いた表情を浮かべる。
「もしかして、あの乃木将軍の?」
「如何にも。乃木将軍は私の父だ」
「ほう、そうでしたか。
ところで、その乃木将軍のご子息がロシアのこんな小さな店にどんな御用で?」
将校の服などの装備はどこの国も自前の場合が多いから、こういう小規模な店にオーダーメイドで頼むことがよくある。
「大使館で腕のいい職人の居る店だと教えてもらってきた。
仕事を頼みたいのだが」
「大使館で…。そうでしたか。
どのような物をご用命でございますか」
「拳銃に使うホルスターを頼みたい」
「ホルスターに御座いますか。
そうなると、オーダーメイドでございますね」
「そうなるだろうな」
ロシア軍には正式採用されたリボルバー拳銃があるが、将校は自前の拳銃を使っている場合が多い。例えば入手が容易なモーゼルやブローニングなんかを使っている将校も多かったはずだ。
俺は今日、大使館経由でロシア政府に許可を得てロシア国内に持ち込んでいるピストルを持参してきている。
持ち込み名目は商品サンプルで弾丸の携行は認められていないが、ロシア側にも入国の際に見せている合法的な代物だ。
ちなみにこの拳銃をロシア陸軍にも売り込んだが、彼等はこの9ミリオートマチック拳銃は動作に信頼性が無いと言って興味を示さなかった。
俺はアタッシェケースから拳銃を取り出すとピリキンの前に置く。
「この拳銃のホルスターを頼む」
ピリキンは拳銃を受け取ってひとしきり見た後、話を続ける。
「見たことが無い銃でございますね」
「ああ、私の経営する会社で作っている新しい拳銃なのだが、まだあまり採用実績が無くてな。
ただ、英国や日本の警察で採用されたので、専用のホルスターが欲しくてな」
「お客様が使われるホルスターでございますね」
「そうだ。頼めるか」
「承りました。
では五日程時間を頂ければ」
「随分早く上がるのだな」
「最近、不景気なせいもあり、仕事を暇していたのでございますよ」
「そうか。
それは丁度良かったな。
では頼む。
拳銃は見本に置いていくが、ロシア政府に届け出してある拳銃なので、無くなるのは非常に困る。
扱いにはくれぐれも注意してくれ」
「それはもう。厳重に扱わせていただきます」
「うん。
では、五日後にまた来る」
「ありがとうございました」
こうして、一先ずホルスターを頼んだ。
勿論、これはきっかけに過ぎず、本来の用事の為の布石だ。
五日後、俺は再びピリキンの店を訪ねた。
暇そうにしていた店番が俺の顔を見ると、奥に声かける。
「これは乃木中佐、出来ておりますよ」
そういうと奥に通される。
「こちらに御座います」
俺の前に油紙で包まれたホルスターが置かれる。
早速と開いてみると、オーソドックスな拳銃すべてを包み込む蓋の付いたホルスターが入っていた。
これはベルトに吊るすタイプの様だな。
俺は一通り仕上がりを見るが、丁寧な仕事をしてあり皮の質も含め申し分ない。
「うん。良い出来だ。
ありがとう。幾らだ」
「はい、このくらいで如何でしょう」
ピリキンが提示してきた金額は前世での金銭価値で三万程だった。
オーダーメイドの革製品という事を考えれば、安くはないが決して高くない値段だな。
「ああ、妥当だと思う」
ピリキンがそれを聞き安堵した表情でほほ笑む。
「ありがとうございます」
俺はピリキンにホルスターの代金を払うと、次の布石である新たな仕事を持ちかける。
「ところでピリキン、もう一つ仕事があるんだが」
「仕事でございますか。
どのような物をご用意いたしましょう」
「うん、こういう品物なんだがな」
俺は彼の前に、前世で自衛隊や米軍も使っていた装備品の図面を置く。
所謂〝Hハーネス〟と呼ばれる、後の歩兵の標準装備品だな。
「これは…、サスペンダーでしょうか?」
「うむ。軍用のサスペンダーみたいなものを考えている」
「ふーむ、わかりました。
まだこういう品物は作ったことが無いですが試しに作ってみます」
「助かる」
「はい。そうですね。こちらの方も五日ほど頂ければ…」
「では、五日後にまた来る。
頼んだぞ」
「はい。受けたまわりました。
あと、こちらの方お返ししておきます」
ピリキンが、油紙で包まれた俺が預けていた拳銃を差し出してくる。
早速、先ほど受け取ったホルスターに入れてみるが、流石オーダーメイドだけにぴったりだった。
「確かに受け取った。
ではな」
俺は宿舎に戻ってからじっくりホルスターを確認するが店で見た通りいい出来で、同行者も欲しがるほどだった。
連中もあの拳銃を使うからな。
五日後、再びピリキンの店を訪ねた。
「乃木中佐、ご注文の品、上がっておりますよ」
「ほう、早速見せてもらおうか」
「こちらになります」
早速、油紙を外してみてみると、皮でしっかりHハーネスが実現されていた。
長さを調整する金属部分もしっかり金属製の金具がつけられており、再現度は半端なかった。
俺が知っている実物は化繊やプラスチックで作られているので軽いのだが、こちらの方は皮と金属で作られているだけに、重さはそれなりだ。
その代わり、高級感が半端ない。
「素晴らしい出来だな。
私が頼んだ通りの品物に仕上がっていると思う」
「それは良かった。
私も試しにそれを使ってみたのですが、軍用にもよさそうですが、ほかにもいろいろと使えそうでございますね」
「そうだな、登山など重量物を背負うのにも役立つだろう」
「そうでございますね。
ところで、こちらの方は金属部品も使われておりますし、価格はこちらの方で如何でしょうか」
そういうと、早速請求書を出してくる。
その金額は前世の価値で十万程で、ちょっと高いように感じる。
量産すると価格は下がるのだろうか。
「妥当だろう」
そういうと、早速とお金を支払う。
それをほくほく顔で受け取るピリキンに、俺は本題を切り出す。
「ところでピリキン、このサスペンダーだが、千の単位で調達したいと考えている。
対応可能だろうか」
その数を聞いてピリキンは驚く。
「せ、千の単位…、でございますか」
「うむ、恐らく少なくとも数千」
「知り合いの伝手を頼っても、そんな大量発注に対応は…」
「そうか。
それは残念だな」
俺があからさまにがっかりした表情を浮かべるとピリキンもがっかりした表情を浮かべる。此処が押しどころだ。
「そうだ、ピリキン。
俺がカネを出すからこの手の装備を作る会社を立ち上げないか。
つまり、小規模な工房ではなく工場になるが」
「え?!」
「俺は軍人だから革製品にそれほど詳しいわけじゃない。
だが、英国や日本の軍へ品物を納入しているのでそれなりに資金力もある。
そして無ければ作るのが俺の方針だから、この手の品物が無いのであれば作ればいいと考えている。
それを君の会社に作って貰いたいのだが。どうだ、なかなかこんなチャンスはないと思うがな」
「そ、そうでございますね…。
ですが、即答は出来かねます。
二、三日、返事を待ってくださいますか」
「いいだろう。
ただ俺はあと少しでロシアを離れるから、あまり長くは待てないからな」
「ええ、確実に返事を致します」
「うん。わかった。
ああ、わかっていると思うが、会社はロシアではなく英国でつくる。
つまり、イギリスに移ってもらうことになる。
でも心配しなくていい。俺の会社には既にロシア人が居るし、手続きなどの便宜ははかる」
「…、わかりました」
翌日、ピリキンが日本大使館まで訪ねてきた。
「二、三日と言って居たのですが、お聞きしたいこともありまして…」
「遠慮なく聞いてくれていい」
「ありがとうございます。
英国に行けるのは私だけなのでしょうか。
それとも、家族も一緒に連れて行けるのでしょうか」
「家族は勿論工房ごとで構わない。
今やっている店はピリキンが居なくなれば続けられないだろう。
長くやっている店であれば弟子たちだっている筈。
希望すればだが、弟子たちも全員一緒で構わない。
住むところもこちらで一先ずは用意するし、言葉の問題もあるだろうから、勉強できるように手配しよう」
「あ、ありがとうございます。
これで私の方は心置きなくお話をお受けできます」
「それは良かった。
では私は先にロシアを離れるが、準備が出来たら日本大使館の方に言ってくれればいい。
渡英の為の便宜を図ってくれる」
「わかりました。
それではよろしくお願いいたします」
こうして、ピリキンは工房ごと渡英し、俺が新たに作った会社で革製品や被服など軍用装備全般を手掛けることになった。
新たな会社を作るにあたって、英国の衣料品会社も買収したから手広く行けるだろう。
それに来年になれば戦争特需でぼろもうけ確定だし、やはり新しい装備は自分のところで作るのが確実だ。
そして暫くして、ピリキンと共に後のソ連邦英雄も兄弟と共にイギリスにやって来た。
後日、直接本人から何故イギリスにやって来たのか理由を聞いてみたところ、イギリスで勉強できるかもしれないという点と、やはりロシアに蔓延する社会不安や閉塞感から解放されたい、というところが大きかったようだ。
俺としては、これでソ連邦英雄の誕生を一先ず阻止出来たし、更に腕が良く頭の良い人材が手に入って万々歳というわけだ。
最後に少しだけ出ただけですが、主人公の下ですっかり共産主義嫌いに育つでしょう。