第二十四話 1913.4-1913.4 ロシア行(改稿12/18)
主人公は二人の同行者と共にウラジオストクに到着、そこからシベリア鉄道でモスクワへと向かいました。
1913年4月、ウラジオストクに到着。
ウラジオストクはロシアではまだ暖かい地方らしいが、4月だと言うのに日本の感覚だとまだまだ寒い。
それでも、先月は連日氷点下まで下がっていたって話を聞けば、今の気温は随分マシなんだろう。
ちなみに、デチャグレフとの付き合いでロシア語は流暢と迄は行かないが、日常会話が出来る程度には習得できた。やはり、ネイティブが居ると違うな。
今回の渡欧に同行するのは例の日野熊蔵少佐と士官学校を出たばかりの安辺浩少尉、そして横須賀海軍工廠の藤本喜久雄少尉の三名。
安辺少尉は後に日本陸軍航空部隊黎明期に欧州で学びパイロットとなった優秀な男で、1万7400kmの長距離飛行を日本で初めて成し遂げた人物でもある。
まあ、たまたま士官学校の卒業名簿見ていて思い出して引き抜いたんだけどな。本人は国費で渡欧できると大喜びだ。
そして、藤本少尉は海軍工廠の技官で後に長門の芋虫煙突を生み出したりと斬新な発想を評価され、最上型重巡などの開発に関わった人物である。
勿論、この時代は大学を出て海軍工廠に配属されたばかりの若者だ。
佐官を前に少々緊張気味の安辺、藤本両少尉は兎も角、つい先日まで同じ階級で、しかも歳も近い日野少佐とはすぐに打ち解けて、合流してから色々と話をした。
話をして感じたのは、日野少佐が発想豊かな優秀な人物だというのは間違いないが、技術的な支援を行える人物が居てこそ活きるタイプだという事だ。
この時期の日本にあって、機体は勿論エンジンまで自作できる人材がどれ程居るだろうか。しかも、その前には奇抜なデザインだが自動式の拳銃まで作っているのだ。
ちなみに日野少佐は1910年に欧州への出張の経験があり、今回二度目の渡欧になる。
まさか、こんなに早く再び渡欧するとは本人も思わなかったらしい。
こんな三人が今回の旅の同行者だ。
俺は日本を出るギリギリに、合流した日野少佐との雑談で1911年に日本に導入されたブレリオ11の事を思い出していた。
初期の飛行機は毎回の飛行が命を懸けた冒険にもなり得る本当に酷い物で、日本にごく初期に導入された飛行機は墜落事故を起こしている。
日本ではじめて航空機で墜落死した事故という事で偶々覚えていたのだが、その事故を起こした機体がブレリオ11だった。
その事故は今年の3月末に発生し、将来有望な日本の若手パイロットの卵が一気に二人も殉職してしまうのだ。
突風に煽られてブレリオ11の主翼が折れて墜落したと記憶するが、本当に酷い機体だ。
それで、間に合えば程度ではあるが、ブレリオは強度に難があるから運用を取りやめるべきだと空軍司令の徳川中佐に意見具申しておいた。
あの人は今日本にあるファルマンもブレリオも両方搭乗経験があるから、多分運用を取りやめるはずだ。
今の日本では飛行機よりパイロットの方が大事だからな。
ウラジオストクは浦塩とも呼ばれ、木造の日本領事館があり数千人の日本人が暮らす日本人町がある。そこには日本の銀行や日本人が経営する商店などがある。
領事館員に案内され、ウラジオストクの視察も併せて行った。
現世の日本の歴史の延長上にシベリア出兵が発生するかは未知数だが、発生したら矢張り日本は無関係では居られないだろう。
その際には、このウラジオストクに上陸する可能性がある。
それに俺がどう関わるかはわからないが、この町を見ておくのは悪い事では無いだろう。
しかし、仮にシベリア出兵が発生したとしても、恐らく前世とは異なり満州に大きな権益を持つ米国が主力となるだろうが…。
ウラジオストクから日露戦争中に開通したシベリア鉄道に乗車する。モスクワ迄の旅程は何もなければ16日間。その間、途中駅で何度も停車しながら列車内での生活を送る。
シベリア鉄道の旅は、等級の高い良い客室であればお金は掛かるが比較的快適な旅だが、等級が低ければあまり想像もしたくない鉄道の旅が待っている。幸い俺達は、等級の高い良い客室で比較的快適な旅が出来た。
退屈な道中、日野少佐と安辺少尉、藤本少尉らと航空機の未来や統合軍、将来の軍の形など色々と話をした。
俺が語る航空機や軍の将来像に三人は興味津々と話を聞き、そして議論を交わした…。
流石先見の明がある、などと敬服されても、俺は歴史をなぞった話をしたに過ぎないのだが…。
特に、藤本少尉に作らせたい強襲揚陸艦に関しては、統合軍を象徴する艦種として三人とも注目し、具体的な絵図面などを見せて運用などいろんな方面からの議論を交わした。
空母の機能を持つが空母では無く、上陸作戦に向いた上陸用舟艇の母艦機能を併せ持ち、対地支援が可能なレベルの火力支援機能も持つ。更には、統合軍の海上機動司令部として充実した通信設備なども整備されたマルチな艦種だからな。
藤本少尉は海軍だが、流石にまだ学校出て一年だと染まり切っていないというか、持ち前の柔軟性か、陸軍色の強い船舶にも興味を示した。
強襲揚陸艦などで運用する上陸用舟艇、日本で言うと大発動艇、米国で言うとヒギンズボート、或いはその上のクラスになる戦車揚陸艇。
更には、水陸両用車や実現可能かどうかは兎も角、概念としてホバークラフトの技術を用いた水陸両用艇など。
陸軍将校二名を交えた海軍関係者との話は尽きることなく続いた。
やはり、第一次世界大戦で本格的に運用が始まる偵察機や爆撃機にしろ、実機がある事も当然だが具体的な運用事例があってこそ想像できるという部分が大いにあると思うのだ。
ウラジオストクを出て17日後、漸く俺たちはモスクワへと降り立った。
旅の間、最初の頃こそロシア料理やロシアのお菓子などに舌鼓を打っていたが、直ぐに三人は連日続く異国の味にウンザリしてしまい、日本の食事を食べたがった。
日野少佐はフランスやドイツにもそれなりの期間居た経験がある筈だが、聞けば日本の大使館へ行けば日本食が食べられたので入り浸っていたらしい。
渡航者が少なかった時代らしい話の様な気もするが、俺はそんな話聞いたことも無かったな…。
フランスは兎も角、俺にとってはドイツなんて芋とソーセージとキャベツの酢漬けだけの国だった。
それは兎も角、モスクワに来るのは初めてだが、やはり広く感じる。
特に日本から初めて出る安辺、藤本両少尉はウラジオストクの町並みですら驚いていたのに、石作りの建物が何処までも広がる大都市モスクワの大きさに圧倒されていた。
この時期の我が日本は、帝都には浅草十二階など高い建物が一部あるが、国の殆どの建物が背の低い木造住宅で、同じ時期の欧米に比べるといかにも見劣りする。
やはりモスクワの町の広さは桁違いだが、一方米国のニューヨークには既に200メートル近い高層ビルが立ち並んでいるからな…。
ちなみに、人口だけで言えば東京は既に275万都市、ニューヨークは480万近く、それに比べモスクワは100万都市に過ぎない。
多分、モスクワが大きく感じるのは地平線が見える程の平地に一つの大きな都市が築かれて居るからだろう。
一先ず日本大使館へ出頭し、到着の挨拶を済ませる。
すると大使館から、日露戦争に従軍し戦傷経験のあるあの乃木大将の子息がモスクワを訪れる、と伝え聞いたアレクサンドルにあるロシア陸軍大学から講演の依頼が来ている、との話が伝えられた。
そう言えばこの時期は、かの〝ロシアの至宝〟は陸大に入ったばかりだっけか。
案外、顔を見る事が出来るかもしれないな。
断る理由も無いので承諾し、数日後に陸軍大学で講演を行う事になった。
そうだ、折角モスクワに来たのなら、ついでにかのジューコフにも会っておくか。
この時期は後のソ連邦英雄も未だ14歳の少年で、革職人の弟子をやっていた筈。
革職人という事であれば、会うための理由を作る事も出来る。
大使館で俺の覚えている情報を伝えて探して貰うと、意外と革職人のギルドみたいなところから伝手を手繰り寄せる事が出来た。
革職人は庶民向けの靴も作るが、庶民は木靴を履く場合もあって、上流階級にも付き合いがある。
弟子時代の修行は辛いだろうが、親方になればそれなりの暮らしが出来る仕事でもある。
ジューコフの親方の品を扱う店の名前と場所を聞くと、翌日訪ねる事にした。
モスクワに到着、ここで少し滞在しロシア陸軍大学とジューコフのいる革工房に立ち寄ります。