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「フォアボール!!」
六番打者はバットを自陣側に放ると一塁ベースに向かって軽く走る。六回の裏、最終回は栄司チームの四番から始まったが、これで三連続のフォアボールだ。誉は全くストライクを取ることができない。原因は明らかだ。やっとのことで逆転をして、あとアウト三つで勝つことができるというのに、この期に及んでまだ負けたら退部という事実に尻込みをして怖がっているのだ。
球がどんな配慮や工夫をしても無駄だった。最低限のプレーがままならない。いくら球でもどうしようもなかった。
状況はノーアウト満塁、そして次のバッターは栄司だ。
最悪のタイミングである。点差は僅かに一点、二塁ランナーが本塁へと帰還すれば逆転サヨナラで球の敗北が決定する。つまり外野にヒットが飛んだ時点で負け、最悪外野フライでも同点に追いつかれる。
それにこの場面、一つのミスが敗北に直結する。打球の取り損ね、ワイルドピッチにパスボール、送球ミス、判断ミス、そんな些細なミスで一点あるいは二点と簡単に許すことになる。バッテリーの二人だけでなく、守備全体にとてつもないプレッシャーがかかる。
内野ゴロでホームゲッツー、もしくは三振に取ることがベストだが今の誉にはいずれにせよ難しいだろう。そもそもストライクが入らない。
それに唯ももう登板できない。完全に追い込まれた。
「ふう……しょうがない、か……」
球はそう呟いてから主審にタイムを要求してマウンドの誉のもとへ向かった。すると呼んでいないにもかかわらず、他の四人も自然とマウンドに集まった。この追い込まれた状況が不安だったのだろう。
「あはは、やばいね」
何から話そうかと考えていたら誤魔化しの言葉が初めに出てきた。
「何笑ってるのよ。あなたこの状況分かってる?」
桜花は呆れた様子で言った。
「そりゃ分かってるよ」
「それならもっと違う言葉をかけなさいよ。二点取られたら負け、一点で延長戦に入ればこちらの勝ちは薄いわ。どのみちこの状況で失点をゼロで抑えなければ負けなのよ」
「うん。それにあの人相手にゼロは現実的じゃない。最低でも外野フライは打たれる。そうすれば桜花の言う通り延長になって、ジリ貧でこっちが負けるだろうね」
「その通りよ。負けたらどうなるか忘れた訳じゃないわよね」
「あーそれ」
球は下を向いている誉の肩に手を乗っけてから続けた。
「負けても誉は退部にならないよ」
「は?」
皆の頭に疑問符が浮かんだ。それもそうだ。球からそのように聞かされていたし、まさか彼女がそこまでするとは誰も思わなかった。
「皆は誉があのヤンキー先輩に勝負を申し込んだと思っているようだけど、本当は私が申し込んだんだ。だから負けても誉が退部になることはないんだって」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あなたが? どうやってよ。あなたのポイントじゃあ……」
「うん。勝負は申し込めない。だから交換したんだ。私と誉のポイントを」
球の更なるカミングアウトに一同は非常に困惑していた。
「言ってる意味は理解できるけど……普通そこまでする? それに誉も知ってたの?」
「い、いや! 知らなかった……」
桜花に睨まれた誉は慌てて弁解する。
「そりゃそうだよ。だって誉の配布端末は私がずっと持ってたんだもん。勝負のことも、ポイントの交換も私が黙ってた」
「そんなことする意味が分からないわ。誉があの先輩に勝負を申し込めば良かったじゃない。ここで負けたらあなたが退部になるんでしょ? 何であなたがそこまでするのよ」
「ん?」
球はとぼけた顔で続けた。
「だって本当に追い込まれた場面でこうやって教えれば、誉は安心して投げられるでしょ。ただ、初めから私と交換してたって知ってたら誉は相当やり辛いでしょ? だって自分の身代わりになるって言われてるもんだからね」
「はぁ……あなた、本当にどうかしてるわ」
桜花は球に近付いてから、思い切り右手を振りかぶって球の頬に叩きつけると、バチン、と乾いた音がグラウンドに響く。
「な⁉︎ 何すんだよ!」
球はビンタのされた左頬を抑えながら言った。
「あんた、誉のこと馬鹿にしてんじゃないわよっ!! この子がそんな弱い子だと思ってんの⁉ この状況を打破できないと思ってんの⁉ 人のことを馬鹿にするのもいい加減にしなさいよっ!!」
「や、馬鹿にはしてないけど、実際に今の状況と退部になるっていう状況を打破できそうになかったから私は……」
「だったら私たちをもっと頼りなさいよ!! もっと私たちに高いレベルを要求しなさいよ!! 今はあなたの思い描くプレーは出来ない……皆、私も含めてあなたのレベルには到底及ばない。でも……だからって何で全部あなた一人でどうにかしようとするのよ!! 私は……それが嫌なのよ!! あなたに期待されていないのが分かる。あなたから見て私には、私たちにはそんな価値しかないの⁉」
「そ、そんなことない! そんな風に思ってたら初めから一緒にプレーなんかしない!」
「あなたは初めから私たちに何の期待なんかしてなかった!! 信頼なんてしてなかった!! だってあなたは一度も私たちの限界を超えるようなことを要求しなかったじゃない! 実力不足を指摘しなかったじゃない!! 全部!! 全部あなた一人で私たちの不足を補っていたじゃない!!」
桜花は球のユニフォームの胸あたりを右手で力一杯握りしめて、その双眸から涙を流しながら続けた。
「所詮、あなたにとって私たちはその程度の存在なのよ!! 今ある能力以上は期待しない……そんなの認めないっ!! もっと私たちに期待して要求しなさいよっ!! 私たちの価値はあなたが思ってる程のものなんかじゃない!! 舐めるんじゃないわよっ!!」
鼻息荒く物凄い勢いでまくしたてた桜花は、ゆっくりと一息吐いてから球から離れる。
「私の言いたいことはそれだけよ。時間を取って悪かったわね。後はあなたの好きにしなさい。どうせ負けようとあなたが退部になるのだから。自分で決めれば良いわ」
そう言って桜花は球を突き放してマウンドから後方の自分の守備位置へと戻っていった。
残された五人の間に気まずい空気が流れる。
そんな空気に耐えられなくなった球は言い訳を始めた。
「皆に期待してないとかそんなつもりじゃなかったんだ」
「桜花は言い過ぎ。球はいつでも私たちのために……」
「唯、そうじゃないんだ」
球は唯の言葉を遮ってから続けた。
「結果的にそう思わせるようになったっていう事実は変わらない。だから桜花の言ってることは正しい。でも……私はあなたたちにもっと高いレベルを要求して良いか分からない! だって私はもう……一度、それで失敗してるから。私が身勝手に一人で突っ走って、皆に嫌な思いをさせたから多くのチームメイトを辞めさせちゃって、最終的にはチームから追い出された。そりゃそうだよ。私は彼らに見合わないレベルのプレーとモチベーション要求しちゃったんだ。上から目線に聞こえるかもしれないけど、事実そうだった。誰も私と同じくらい試合に勝とうとはしなかったし、同じレベルでプレーできる人はいなかった。何よりそれをしょうがない、と皆が諦めていることが許せなかった。だって、私より身体能力に恵まれてるくせに、大した積み上げもしないで私を疎んでいただけだった」
球は空気が抜けたような笑みを浮かべた。
「だからさ、またそうなるんじゃないかって。私が皆に上のレベルを要求したらいつかついてこれなくなって、結局また私の居場所がなくなるんじゃないかって。だから皆に期待してないとか、信じてないとかそういうんじゃないんだ」
球にそんなつもりはないことは他の五人も十分に理解していた。でもそれと同じくらい遠慮されていることも分かっていた。
それでも桜花以外の四人はそれを指摘することはなかったし、今も何て声をかければ良いか迷っている。球に要求をされないことは悔しいし、配慮されている申し訳なさもあるけど、何よりその要求に応える自信がなかった。もちろん球についていきたい気持ちはある。けれど男子ですらついていけなかった球に自分たちがついていけるか、と問われれば自信満々に答えられるのは桜花だけだろう。だから皆はっきりと意思表示ができない。
「ごめんね、試合中にこんな話して。こんな話聞かされても困るだけだよね。とりあえず試合を再開しよう。打たれる可能性は高いけど、最後まで気を抜かずにね、行こう」
球は半分諦めた様子でそう言った。
「待って、球ちゃん。その……」
誉は振り向いた球の袖を掴んだ。
「ごめんね……うんうん違う。ありがとう。私のためにそこまでしてくれて。入部してからずっと助けられてたし、いつも私のことを想っててくれた。でも、こんなこと私がとても言えたことじゃないし、お前が言うなって感じなんだけど……もっと私たちを頼ってほしい。頼りないことは分かってるし、すぐ尻込みしちゃってせっかく球ちゃんがここまで頑張ってくれたのに、そのチャンスも壊しそうになってる。そんな私に頼れって言われても説得力何て皆無だけど……少なくとも私たちのために一生懸命に動いてくれている球ちゃんに何を要求されようと、絶対に拒絶したりはしない! 皆だって、桜花ちゃんだっておんなじ気持だと、私は思う。こんなのは私の我儘だって分かってるけど、私にも……私たちにも……」
「待って」
球はその場で土下座を始めた。
「お願いします……私を手伝ってください」
そう言うと土に一滴の涙が落ちた。球は嬉しかったのだ。そんな風に言ってくれた人は今までにいなかったから。女だからと疎まれ続け、一人でひたすら積み上げるしかなかったシニア時代を思い出す。桜花も誉も、球を受け入れると言った。本当についてくることが出来るのか、またシニア時代のチームメイトのように拒絶されるのではないかという疑問は残るけど。少なくとも二人は今、この瞬間は球を受け入れると言った。
今まで誰もそんなことは言ってくれなかった。だからこの上なく嬉しかったのだ。
「球ちゃん」
誉の声に球は涙を袖で拭いながら顔を上げる。
「こちらこそ、お願いします」
すると笑顔の誉が手を差し伸べていた。球はその手を取って立ち上がった。