それは私の仕事じゃないしベストでもない
最終回、状況はワンアウト二塁だ。栄司の調子が上がってきたボールに紬が辛うじてバットへボールを当てて、何とか内野安打で出塁すると、初回と同様に球は送りバントをして紬を無事に二塁へと進塁させた。
球は一塁から自陣ベンチへ帰る途中で桜花とすれ違いざまに二人は立ち止まる。
「桜花、あのさ」
「話しかけないで。言ったでしょ? 今のあなたのアドバイスは聞かないって」
「それは分かってるけど、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
「うるさい! あなたに頼らなくても私は大丈夫なのよ!」
「いや、でも」
「いいから。黙ってベンチに帰りなさい。私は、今の私で絶対にやり遂げる。私のベストを尽くすだけ。あなたは誉のアップにでも付き合ってあげなさい。それが今のあなたの仕事よ」
桜花は一歩前へ踏み出した。
「たった二点差……私の仕事は塁に出てランナーを貯めることよ」
「ファール!!」
甲高い金属音に続いて審判のコールが響く。
「ちっ!!」
栄司は汗を拭いながら敦也が投げ返したボールを受け取ると大きな舌打ちをした。
彼は桜花に対して十五球も投げている。カウントはスリーボール、ツーストライクのフルカウントから動かない。
「ふぅ……」
桜花は軽く息を吐いた。十球続けてファールを打っている。すでに集中力が切れていてもおかしくはないが、彼女のそれは一振りする度に徐々に高まっていく。
そして十六球目もまたファールだ。
「てめえ、いつまで粘るつもりだ。さっさと三振しちまえよ」
痺れを切らした栄司は息を荒くしてストレスを募らせていた。
「そう言われましても、私はベストを尽くしてるだけなので。私に粘られるのがそんなに嫌なのであれば、私が空振りをするようなボールを投げてくださいよ」
「おい、あんま調子こいてんじゃねえぞ」
「こいてません。あなたが言ってたことじゃないですか。私は実力もない、分を弁えずに高校野球をやってる女なんですよね? だったらそんなやつ三振に取るなんて簡単じゃないですか。早くもっとすごいボールを投げてくださいよ」
「てめえ……後悔させてやるよ」
桜花の挑発に対して栄司はボールを強く握りしめ、敦也のサインをロクに見ずに投球モーションに入った。
栄司が十七球目に選んだボールはスプリットだった。ストレート同等の球速でバッターの手元で急激に落ちるボールが、外角低めのストライクゾーン際に吸い込まれていく。明らかに三振を取りにいったボールだ。
桜花がバットを始動させると栄司はニヤリと笑った。ストライクゾーンからボール球になる自分のスプリットを桜花がバットに当てることは不可能だ。全国区の有名なバッターからもこのボールで幾度となく三振を奪った。だからこんな女に打てるわけがない。一度バットを振り出してしまったら、後は三振するしかないと、彼は確信していた。
しかし――桜花はバットを止めたのだった。スイングの途中でバットを戻した。向かってくるストレートに見えるボールへ違和感を覚えたのだ。栄司の指先からそれが放たれてから僅かコンマ数秒の間の判断である。
考えている暇などなかった。それでもスイングを止めることが出来たのは彼女が自分の直感を信じていたからだ。日頃から自分を信じて研鑽を積み続けた彼女だからこそ出来たこと。
「フォアボール!」
桜花の極限まで高まった集中力と選球眼が栄司の技術と身体能力を上回った。
ベストを尽くす。桜花は今の自分のベストがフォアボールで出塁することだと自覚していた。もちろん納得はしていなかった。今の自分では栄司の力に敵わないと言っているようなものだったから。
それでもヒットを狙うより確実に出塁できると考え、それに徹して宣言通りに実現した。
「てめえ、それで満足かよ。そんな無様な出塁で良いのかよ」
栄司は呆れた様子で一塁ベースへと向かう桜花を見る。
「満足なんてしてないですよ。出来るなら私の手で一点返したかった。でもそれは私の仕事じゃないしベストでもない。それは玲の――四番の仕事ですから」