そんな心配そうな顔しなくてオッケー
結局、玲の三振を皮切りにエンジンのかかった栄司は五番打者である唯も呆気なく三球三振に斬った。遊び球なしの全球ストレート、ボールの威力のみで押しきった。実力差があるから出来る芸当である。
栄司の一見悪手に見えた作戦も、球たちの中で打撃が最も得意な玲を有利な状況で捻じ伏せたことで試合の主導権を握る事が出来た。
結果的に玲の三振は大きなチャンスを逃しただけでなく、試合を左右する流れを自ら断ってしまうこととなった。あの場面で得点していたら流れを確実に掴めた。
そして野球などのチームスポーツにおいて流れは非常に重要な要素である。流れが良い時はチームの雰囲気も良く面白いほど得点が入ったりする。反対に流れが悪い時はとことん点が入らないし、チームの雰囲気も悪い。すると大抵悪いことは重なる。どれだけ最善手を打っても、どれだけ相手の裏をかこうと意味はない。
球たちは完全に主導権を握られたのだ。
そして快音がグラウンドに響き渡る。
一番打者である栄司に対して誉が放ったボールは球が要求したコースとは真反対の逆球だった。内角の甘いコースに投げられた力のないストレートは、栄司のバットの真芯で捉えられて場外へと吹っ飛んでいく。文句なし。見事なまでの先頭打者場外ホームランだ。
控えめに言って最悪だ。貴重な得点の機会を逃した上に楽々と先制点をたった一球で与えてしまった。
ダイヤモンドを一周してきた栄司が球とのすれ違いざまに吐き捨てる。
「クソみてえなボール投げやがって。あのクソチビ、てめえの退部にビビってんじゃねえの?」
「それはちょっと違いますね。あの子は負ければ自分が退部すると思ってますから」
「は? どういう意味だ?」
球は栄司の問いかけを無視してマウンド上で落胆する誉に声をかけに行く。
「ごめん誉。私のミスだわ。もっと慎重に入るべきだった」
球はマスクを外して後頭部に右手を当てながら軽く言った。
「い、いや……私が逆球を……」
誉は親に叱られる子供のような様子で言った。
こんな時に何て声をかけるべきなのだろうか。励ますべきか、鼓舞するべきか、それとも誤魔化すべきか。ただそのどれを実行しても意味がないように思える。
球が自分のミスでホームランを打たれたと思っているように、誉もまた自らのコントロールミスで打たれたと思っている。
自分のミスを責めている彼女に前を向かせるためには、いずれの選択も悪手だ。余計にそのミスを意識させるだけだ。
だから球が彼女にかける言葉は変わらない。
「まあ今のは忘れよ。まさか失点無しで抑えられるとは思ってないでしょ? 誉は何も考えなくて大丈夫だから、ね? 私を信じて投げて」
「球ちゃんを信じる……うん。分かった」
「じゃあ締まって行くよ」
二人は右手同士でグータッチをして、球は駆け足で戻る。ホームベース後方でマスクを被りしゃがもうとしたところで、打席に入った敦也が彼女に顔を背けながら言った。
「それで良いのか?」
「は?」
「三野さんに対してあんな言葉をかけて良いのか、って言ってるんだ。あんなの問題の先延ばしだろ」
「あれが現状の最適解に決まってるじゃない。誉の性格を考慮した上でそうしたのよ」
「最適解ね……本気で言ってるのか? それなら偉才も緩くなったよ。もうその称号も捨てた方が良いな」
「偉才なんて周りが勝手に呼んでるだけじゃない。誰が欲しいなんて言ったのよ。どうでも良いわ。それに私の選択をあなたがとやかく言う権利はない」
「ああ、そうだな。ただ、そのお前の最適解で俺を抑えられると思っているのなら業腹だ」
「あっそう。あなたが私をどう思おうと知ったこっちゃないわ。それより早く構えなさいよ。投げれないじゃない」
「そりゃあ悪かった」
球は信じていた。誉が球を信じたように自分自身を、自分の知識と経験から導き出した選択と計算を信じていた。それこそが必死に、それに死ぬ気で血反吐とゲロを文字通り吐きながら積み上げてきたものだから。
けれどそれは幼馴染のたった一振りでいとも容易く崩されてしまう。
誉に要求した一球目は外角低めのソードカッターだった。球としては一旦様子見のつもりだった。もちろん際どいボールゾーンにミットを構えた。しかし、誉の放ったボールは球が構えたコースより内側に入る。
それに曲がらなかったのだ。
本来であればストレートと同じくらいのスピードで打者の手元に置いて鋭く剣のように横方向に曲がるのだが何の変化もしなかった。それにスピードも全く出ていなかった。指から思い切りすっぽ抜けた棒球だった。
「残念だよ……球」
ホームランを打ったのに敦也は浮かない表情を浮かべていた。
「玲!!」
敦也の次、三番打者が打った瞬間に球は叫んだ。打球に対して玲の反応が明確に遅かったのだ。球としては上手く玲とセカンドベースの間、彼女の守備範囲に打たせたつもりだったが、反応が遅れたため取れるかどうかギリギリのタイミングになってしまう。
玲は必死にボールに食らいつきグラブを伸ばすが、無常にもボールは紬のいるセンターに転がる。センター前ヒットだ。これでノーアウト一塁になった。二点を取られた上に続けてランナーを出してしまう。
けれど問題はそこじゃなかった。
球は主審にタイムを要求する。
「皆、集まって」
守備につく四人がマウンドへと駆けてくる。
「とりあえず皆、足動いてないからちゃんと動かして、それからもっとお互いに声かけ合ってね。ゲッツーを取るのがベストだけど、焦らず一つずつ丁寧にやっていこ」
誉たちは同意して頷くが桜花だけはそうしなかった。
「ねえ、あなたさすがにそれはないんじゃない? 負けたら誉が退部なのよ?」
球の言葉に対して桜花が噛み付く。
「分かってるよ。だからこうやって……」
「だからそれが信じられないのよ。もっと真面目にやんなさいよ! 私の言ってること分かるでしょ⁉︎」
「分かるけど、それを言ったところで何の解決にも」
「いいえ、解決するために言うのよ。あなたがいつまでもそう怖がって言わないのなら私が言ってあげるわ」
「待っ……」
桜花は球の制止を無視して玲を指して続けた。
「守備の最中にさっきの打席のこと考えてたわね」
「うっ……」
玲はビクッと身体を震わせた。図星を突かれたのだ。
「あなたなら余裕を持ってアウトに出来たはずよ。球もそれを計算であなたのところに打たせた。でも、あなたは三振したことを引きずって、それを考えていて打球に対して反応が遅れた。結果ヒットよ。あなたはチャンスを棒に振った挙句に相手にチャンスを与えたのよ」
「そ、そんなの分かってるけど……」
「だったらやることも分かるわよね?」
「わ、分かってる」
玲は申し訳なく俯きながら言った。
「いいえ、分かってないわ。あなたがやることは前の失敗を振り返って悔やむことじゃないし、その失敗を取り返そうとすることでもないわ。あなたがやることは今この瞬間から自分に出来るベストを尽くすことよ。失敗を悔やんで振り返るのは試合の後でいいのよ。とりあえず前を向きなさい」
桜花は俯いた玲の顎を右手で掴むと無理矢理に顔を前に向かせた。そして優しく、小さく笑った。
けれど、すぐに表情を厳しいものに戻すと次は誉を指して続けた。
「あなた、自分の退部がかかっているのよ? もっとしっかりしなさいよ。球に頼りきりですら何も出来ないじゃない」
三連続で打たれた挙句に桜花から強い言葉を浴びて誉は完全に萎縮してしまっている。
「桜花、それは言い過ぎだって」
「そんなことないわ。この試合で一球でも要求通りのボールが来たかしら?」
「それは、そうだけど」
「ただのコントロールミスならまだしも単にビビって、自分で勝手に縮こまって、自分に出来ることもしない。この子は当事者なのよ⁉︎ 良い加減もっとしっかりしなさいよ!」
桜花の言っていることは何も間違っていない。完全に正しい。けれどそれではダメなのだ。そういう言い方をしても誉が立ち直ることはない。
事実、余計に萎縮してしまって今にも泣き出しそうに顔を歪ませている。
球もそれを十分理解しているからそういう選択をしなかったのだが、それでもダメだった。敦也に打たれたホームランがそれを物語っている。
球が次の手を考えていると、唯が予想外の提案をしてきた。
「あーそのさ、投げるよ、私」
「何言ってるのよ。唯、だってあなたはもう一年近く投げてないのよ」
「桜花の言う通りだよ。私も賛成できないな」
唯はいつもの惚けた表情に緊張感を持たせて続けた。
「んーでもさ、今のまま誉が投げても余計に失点するだけじゃない? だってほら、明らかにいつもの誉じゃないじゃん。一旦間をとって私が投げるのは妥当だと思うけど」
「いや、それはそうなんだけど」
非常に助かる。球はそう思ったけれどいくつか懸念点があった。一つは桜花の言う通り一年近くのブランクがあることだ。投球練習はしているものの、いきなり実践の、それも負けたら退部というひっ迫した状況において登板して、果たしてまともに投げることが出来るのか。
そしてもう一つは……。
「再発したらどうするのさ。唯のその怪我は決して軽いものじゃないんだよ。そんなこと自分が一番分かってるでしょ? どれだけ苦労してリハビリしてきたのさ。一年でやっとそこまで治ったのに」
球が一番懸念していることは怪我の再発だった。唯の怪我はほとんど治っており、投球練習自体もしている。だが、いきなりこんなひっ迫した試合で投げることは、練習とは訳が違うのだ。何が起こるか分からない。だから球は再発を心配しているのだ。
それに再発すればまたリハビリをやり直さなくてはならないし、次また同じように投げられるまで回復するかも分からない。唯の選手生命を縮めるようなことはしたくないのだ。
それでも唯は食い下がった。
「だって今投げなきゃ……勝つためには私が投げるのがベスト。それに勝つためにならどんなことでもする。それが私の長所なんでしょ?」
「それはそうだけど……」
球は少し考えた。この試合に勝つため唯の登板を許すか、それとも誉を何とか立て直して続投させるか。球は誉に視線を送った。彼女はその視線に気づかずにただどうすることもできなく、おどおどしていた。
そんな彼女の様子を見て球は決めた。
「分かった。交代しよう」
「あなた、本気⁉」
その決定に桜花が意を唱えた。
「本気だよ。唯の言う通りこうするのがベストだし、怪我をほぼ完治してる。万が一に備えてケアはするから」
「けど……」
今度は桜花が食い下がる。
「じゃあ痛みが出たら、そうじゃなくても何か少しでも違和感があったら必ず、すぐに言うって約束にしよ。それに私も絶対に違和感を見逃さないから。それなら桜花も納得できる?」
桜花は少し考えてから唯に向かって言った。
「約束出来るのかしら、あなたが」
「うん、必ず言うよ。だから投げさせて、桜花」
「うーん」
「必ず抑える。抑えて皆一緒にこれからもするんだ、ここで……それで甲子園に行く。そのために私は今投げなきゃ、いや、投げたい」
唯はそう言って桜花の手を握ると、
「ちょっ! 離しなさいって! 分かった! 分かったから離して!」
「じゃあ……私が投げるってことで」
唯は誉へと手を差し出して、少し考えてから続けた。
「大丈夫。私が……違うな。私たちが抑えるから。そんな心配そうな顔しなくてオッケー」
唯は誉の握ったボールにそっと手を添えてから続ける。
「任せて」
誉は泣き出しそうになるのを我慢しながら、強く頷いた。