俺の気が済まねえんだわ
「ちっ! クソがっ!!」
栄司はマウンドの土を思い切り蹴り上げて怒りを露わにする。
ワンアウト二塁――一番打者の紬が栄司たちの警戒を潜り抜けてセーフティバントで出塁すると、二番打者の球が手堅く送りバントで紬を二塁へと進めた。
栄司としては初回から球たちに得点のチャンスを与えてしまっている事実に腹が立って仕方がないのだ。特に球の存在が気に食わない。彼女がいなければ得点のチャンスなど与える間もなく抑えることは容易だろうし、そもそもこんな退部をかけた面倒な勝負などしたくもない。女の、それも一年のくせに自分の思い通りにならない球に栄司がフラストレーションをためるのは仕方のないことだ。
そしてバッターは桜花、玲と続く。球はバッターボックスへと向かう桜花にアドバイスをしようと彼女へ近寄っていくが。
「やめて。私はあなたなんかに頼りたくないわ」
桜花はそう言って球を拒絶した。
しかしそれでも球は食い下がった。初回の立ち上がり、まだ栄司は浮足立っている。調子の安定していないうちの何としても点数を取っておきたい。それに手強い相手は栄司だけではない。敦也もいる。この機会を逃してしまえばもう得点できない可能性が高いし、何より先制点を得ることができれば、一番の不安要素である誉が幾分か楽に投げることができる。
この試合の勝敗はピッチャーである誉の出来にかかっている。球はそれを十分に理解している。だから精神的に脆い誉へ少しでもプレッシャーをかけないように何としても先制点をプレゼントしたかった。
「桜花、頼むよ。大事な場面だって分かるでしょ?」
「ええ、十分理解しているわ」
「だったら……」
「だから尚更よ。今のあなたの助言なんて聞きたくないわ」
何て身勝手な言い草だ。球はそう思ったがやっぱり何も言い返せなかった。ここで言い返して口論になることが一番の不利益になると考えたからだ。
「はあ……」
バッターボックスへと入る桜花の後姿を見て球は重い溜息を吐いた。
それでも球は桜花に期待していた。立ち上がりの、調子の上がらない栄司のボールを彼女が安打にすることは難しくない。そう考えていたのだ。ワンアウト二塁、それに二塁ランナーは紬である。彼女なら一つヒットで容易く本塁へ帰ってくることができる。
けれど期待というものは大抵裏切られるもので、事を上手く運ぶことはそうできない。予想外なことが起こる。栄司がホームベースの後ろで構える敦也を立たせた。つまりは桜花との勝負を避けて敬遠するということだった。
「栄司さん、何を?」
「うるせえなあ! お前は黙って俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ!」
指示を受けた敦也も非常に困惑していた。無理もない。
次の打者は男子選手よりパワーのある玲だ。しかも以前の勝負で栄司は玲に逆転打を浴びているし、そして何より特に一発、ホームランを警戒しなくてはならない打者だ。彼女の打席を迎えるうえで、なるべくランナーを溜めない方が良い。万が一に長打やホームランを打たれた際の得点が少ないからだ。
だから桜花を三振ないしは最悪でも打ち取ることで、ツーアウト二塁もしくは三塁で玲と勝負をするのがセオリーだ。わざわざ桜花にフォアボールを与え、ワンアウト一、二塁という悪い状況にする理由がない。
けれど栄司は自らの首を絞めた。
「どういうつもりですか?」
桜花は栄司に怪訝な視線を向ける。
「てめえにも打たれたからな、本当は今すぐにでも仕返しをしてやりてぇけどよ、それよりも何よりも先にてめえの次のやつに仕返しをしねえと俺の気が済まねえんだわ」
栄司はニヤリと笑ってネクストバッターズサークルで片膝をついている玲に視線を送った。
「それなら私と勝負をした後に玲とすれば良いじゃないですか。私をわざわざ敬遠する理由が分かりません」
「ああ? そんなことも分かんねえのか? てめえを打ち取った後に勝負しても意味がねえだろ。てめえを歩かせて、お前らが圧倒的有利な状況で捻り潰さねえと意味がねえだろ?」
「それはいわゆる舐めプというやつですか?」
「だからそうだっつってんのが分かんねえのか? なめてんだよ。てめえら女相手にただ勝っても意味がねえ。てめえらが圧倒的に有利な状況で捻り潰さねえと勝ちじゃねえんだ。本来、それくらいの実力差があんだよ俺とてめえらの間には。あの女がいなけりゃあな」
「球ですか……」
「他に誰がいんだよ。あいつがいなけりゃ試合にすらなってねえ。てめえも次の打席はあいつのアドバイスを聞いとくんだな。でなきゃ対等じゃねえ」
「嫌です」
「ああ? 馬鹿言ってんじゃねえよ。それじゃあ話になんねえだろうが」
「本当にそうだと良いですね」
「は? まあいい。今はてめえに興味はねえ。さっさと歩けや。申告敬遠だ」
桜花は納得のいかない表情を浮かべながら一塁へと向かった。
そんな彼女と入れ替わるように玲がバッターボックスと向かう。表情がとても硬い。いつもの快活で楽天的な雰囲気はどこかへ消えてしまっている。心配になった球は打席に入った彼女に声をかける。
「玲、気持ちは分かるけど落ち着いて」
「お、おう! 分かってる!」
そうは言うがどうしても力んでしまう。栄司に言われたことと桜花の言葉が頭に残ってしょうがないのだ。球に頼りきりで自分だけでは何もできない。栄司とはまったくの勝負にならない。玲自身そのことを良く理解している。だからこそ悔しいし、絶対に打たなければならない。
それに退部のかかったこの状況で必死にその恐怖に立ち向かう誉のため、玲は四番として、チームの主砲として是が日にでも先制点をプレゼントしたかった。だからこそ気持ちは昂り、頭では冷静にならなければならないと分かっていても余計に力んでしまう。
いつもより大きくバットを構え闘争心を剝き出しにする玲に対して、それを嘲笑うかのような表情で栄司は投球モーションに入った。一球目は外角低めに高速スライダーで二球目は内角低めにフォーク、いずれも審判のコールはストライクだ。
これでツーストライク、追い込まれた。それにノーボールであるため栄司は後三球を自由に使うことができる。ストライクゾーンからボールゾーンへと逃げる変化球や高めの釣り球など様々な攻め方ができる。打者としてはそのすべてに対応しなければならない。それに一度でも空振りをしてしまえば三振だ。精神的にも圧倒的に不利な状況であることは間違いない。
そして栄司が放った三球目は内角高めのストレートだった。以前に玲が逆転打を放った時とまったく同じコースだ。彼はあえて同じように投げた。同じコースの同じ球種で玲を三振に取ることで自らの力を誇示しようとしたのだ。
けれど玲はそれが来ることを分かっていた。もちろん球の予想を聞いてこのボールを狙っていたのである。以前と同じように、いや、以前より完璧に捉えて今度こそスタンドに叩き込んでやろう。そう考えていた。
「よしっ!」
バットを振る玲がホームランを確信した瞬間だった。
「ストライークッ!! バッターアウトッ!!」
審判のジャッジが響く。
「え……なん、で……」
原因は明らかだった。力んでいた。それだけだ。
力んだことで本来のスイングスピードには及ばず、結果的にバットはボールの下を虚しく通過したのだ。それにタイミングも明らかに遅れていた。仮にボールがバットに当たっていたとしても凡フライが内野に上がっていただけだろう。
本来のスイングを出来ていたらホームラン、もしくは確実に長打だっただろう。千載一遇の機会を逃した。このミスは先制点を取れなかったという事実以上に大きい。
さらに、球の助力を得ながら打てなかったという事実が玲にのしかかる。
「三振……」
玲は虚ろな眼差しで空を仰いだ。