さあ、じゃんけんしましょう
早朝、時刻は五時手前。球は自販機でエナジードリンクを買ってベンチに座ると喉を鳴らしてそれを流し込む。
「ふぅ……」
一息ついてから空を見上げて目を見開いた。昨晩は昂ってあまり眠れなかったのだ。栄司たちへの勝負の申し込みを完了してから、情緒を上手く制御することができない。元から頭に血が上りやすい性格だが、試合前は尚更だ。しかも気持ちが入れば入るほどそれは顕著だ。良くないことは分かっているが彼女自身にはどうすることもできない。
それに相手は気に食わない栄司、過去に因縁のある敦也で、二人とも実力は数段上だ。そんな二人を一度に相手取って負かすことができる。そう考えただけで身震いするほど昂ってしまう。
もちろん負ければ退部になってしまう事実を忘れた訳ではないが、今の彼女にとってはそれすら心地良い。この状況が気持ち良いのだ。
「あまり良くないんだけどな」
そう言ってもう一度流し込んでから、再度空を見上げて、深く呼吸をする。
間もなくガコン、と誰かが自販機で
「相変わらずだな。試合の度にそのエナドリ、昂る気持ちは分かるけど良い加減にその癖直せよ。前に一度倒れて病院送りになっただろ。興奮しすぎだし、そんなに目を血走らせて、まるで獣だな」
敦也だ。彼を視界に入れると球は更に気持ちを昂らせる。
ただ彼女はその気持ちを無理やりに抑え込んだ。
「試合前に近づくなって、気安く話しかけるなって散々言ったことは覚えてないのに、そんなどうでも良いことは鮮明に覚えてるんだ。本当に気に食わない。視界に入るなとも言ったのに、それも無視だよね。本当にいつもいつも、あんたってやつは私の邪魔ばかりしやがって」
「俺としては邪魔をしているつもりはないんだが」
「もうそれもいいって聞き飽きた。それに邪魔か邪魔じゃないかは私が決めるのよ。まったく……色々教えた恩とまでは言わないけど、私の野球人生を滅茶苦茶にしやがって」
「だから誤解だと言ってるだろ。まあそうは言ってもお前が聞き入れてくれないのは分かってるし、お前から見たらそう見えたのも理解できる。納得はしてないがな」
「理解できるなら黙って納得しなさいよ。それに今も私の邪魔をしてるじゃない。あのヤンキーと手を組んで私を退部にしようとしてるじゃない。そうやってまた私から居場所を、存在価値を奪っていくんだ。でも、今度はあの時のようにはいかない。ここは清流高校野球部、あんたが如何に、何度も立ちはだかろうと私は実力で捻じ伏せるだけ。私はこの時のために死ぬほど積み上げてきた。私から少し野球を教わったくらいで私に敵うと思うなよ」
球は残った缶の中身を一気に飲み干してから、それをゴミ箱の丸口に向かって思い切り投げると、無数に回転しながら見事にそこへ吸い込まれていった。
「お前に技術で勝てるなんて微塵も思ってない。だから俺は、俺が磨き上げた身体能力とお前に教わった技術でお前を捻じ伏せる。俺は俺の目的のために全力でお前を負かしに行く。かかってこいよ。今のお前に負けるなんて考えられない」
「はは、今までロクに勝ったこともないくせによく言うよ」
「ああ、そうだな。お前が正捕手で、俺はずっと二番手だった」
「だから言ったんだ。せめて違うポジションにしなよって」
「でも俺は後悔なんかしてない。あの時、お前に憧れてキャッチャーを選んで本当に良かった」
「はは、良かった? 結局私を排除しないと一番手になれなかったのに?」
「ああ、それでもだ。それにそのお陰でお前の欠陥に気づくことができた。それをお前が自覚して直さない限り、俺が負けることはないよ。断言する」
「へえ……」
球は血走った目を見開いて敦也をジッと見る。
「本気なんだ」
「ああ、もちろん」
「そう……なら、思い出させてあげる。扇の偉才を……っ!」
「さあ、じゃんけんしましょう」
球は栄司に向かって右手をぐーにして差し出す。試合直前、両チームがそれぞれ準備をする中、二人はバックネット付近で相対する。
「本当に俺よりポイントを低くするなんてな、いってえどんな手を使ったんだか。まあいい。こんなに早くてめぇをぶっ潰せるんだもんな。ありがてぇ、お前も所詮女だってこと思い出させてやるよ」
「はあ、まだそんなこと言ってるんですか。もう良いじゃないですか。女だとか男だとか、心底どうでも良いんですよ。ここは実力主義ですよね? なら早くやりましょうよ。いくら吠えたところで何の意味もありませんよ。ここでは勝った方が正義なんですから。ほら、じゃんけん。じゃんけんしましょ?」
「てめえ相変わらず舐めてやがるな」
栄司はそう言ってから同じ様に左手を出す。
「じゃんけん弱いな。もう一回やっとくか?」
栄司がパーで球がグー。以前の勝負に続いて二連敗だった。
「いいえ、結構です。何度やっても結果は同じなので」
「おいおい、そんなんだったら他の奴に代わってもらえよ。毎回後攻めの有利を捨ててるもんだろ。分かってんのか? お互い負けたら退部なんだぞ。少しでも有利を取ろうとすんじゃねえのか?」
「すっごい正論ですね。でもいいんです。これが私なので。それに後攻めの有利くらい先輩にくれてやりますよ――どうせ勝つのは私たちですから」
球はそう言ってから自陣のベンチへと戻る。
「ごめん、また負けたわ。私ら先攻ね。ほら誉、ピシッとしなよ。縮こまり過ぎだって」
「だ、だって! 負けたら退部だって思うと……もうどうしようもなくて……」
もちろん球はポイント交換のことは誰にも話していないし、誉の配布端末も本人に返していない。球はこのまま彼女に伝えることなく事を済ますつもりだ。
「大丈夫だって、言ったでしょ? 誉は野球にだけ集中してくれれば良いって。その他は全部私に任せてくれれば良いって。それに皆だっている。誉が折れそうになっても皆が支えてくれる。ね? 桜花」
ベンチの外で軽くストレッチをしていた桜花は、バツが悪そうに顔を半分だけこちらに向けて言った。
「私に振らないでくれる? それに私はどんな状況だろうと全力を尽くすだけよ。誉の退部がかかっていようと、そうでなくとも変わらないわ」
「ほら、桜花も喜んで助けてくれるって言ってるじゃん。だから安心して」
「ちょっと、あなた人の話聞いてるの? そんなこと一言も言ってないわ」
「え? 全力を尽くすってそういう意味じゃないの?」
「うるさいわね。それにあなたのやり口はやっぱり気に食わないわ。あなた本当にそのままのつもり?」
「桜花の言ってることは難しくてよく分かんないよ」
「あ、そう。分からないのならそれで良いわ。ただいつか自分で自分の首を絞めることになるわよ。シニア時代のあなたがそうだったようにね」
桜花の言葉に球は何とも返すことができなかった。