ね? 打たれたでしょ?
二番打者が放った打球の鈍い金属音が響く。誉の放ったツーシームに完璧に詰まらせら
れたボールは右中間にふらふらと弱々しく上がった。一見打ち取った打球だったが飛んだ場所が悪かった。
「捕りますっ!!!」
紬がセンターからボールの落下地点目掛けて一直線、小さい身体がまるで弾丸のように、その短い脚をフル回転させて突っこんでいく。それでもノーバウンドで捕球できるか、出来ずにヒットになるかギリギリのタイミングだった。
彼女は一か八かボールが地面に落ちるギリギリでグラブを精一杯伸ばして頭から飛び込む。そのまま数メートル滑り、ゆっくりと立ち上がってからグラブを上に掲げる。
駆け寄った審判がそのグラブに収まったボールを確認してからアウトを宣告する。
「つー! ナイスっ!!」
誉へと返球した紬めがけて玲が飛びつく。
「駄目ですよ玲ちゃん。戻ってください! インプレー中ですよ!」
紬は注意する割に表情が緩み、嬉しさを隠しきれていなかった。
「ふう……計算とあまりズレてなくて良かった」
二プレー連続で何とか乗り切ったため球が胸を撫で下ろすと、次の打者である栄司がバッターボックスへと足を踏み入れる。
「てめぇ、あれ計算してやってんのか?」
「だったら何ですか? ヤンキー先輩?」
「てめぇなめ腐ってんな。まあ良い、てめぇの仲間はそこそこ使えるみてぇだけどよ、こっちは二年のくせにポンコツだらけだからな。俺の手でてめぇらの希望ごと打ち砕いてやるよ」
球はじぃっと栄司を見つめてから審判に呼びかける。
「タイムお願いします」
審判がタイムを宣告すると球はマウンドの誉の下へ駆け寄る。
「調子よさそうだね。このままいこう」
「う、うん。やっぱり球ちゃんに受けてもらうと調子が出るのかも。捕る音とかすごい気持ち良いし、絶対に捕ってくれるって安心感があるし、それに気のせいかもだけど何故かストライクになる確率が高いというか」
誉の言っていることは気のせいではなかった。ストライクゾーン際のボールと判定されてもおかしくないコースに投げ込まれたボールを、ストライクと審判に判定させるキャッチングの技術をフレーミングという。普通、フレーミングは審判に悪印象を与えるため多用しないが、球のそれは審判にそういった印象を一切与えることがないため、全ての際どいコースのボールに対してフレーミングを行うことができる。ピッチャーからすればストライクゾーンが広がり非常に投げやすい。反対にバッターからすれば打ちにくいコースにまで手を出さなくてはならないため非常に不利な戦いを強いられる。
「ふふ、ありがと。頭の遥か上を超えるボールは捕れないけど、それ以外のボールは絶対に捕球するし、後ろに逸らすことはないから。それだけ気を付けてくれれば良いよ」
「う、うん……でも次は……」
「そうだね。ヤンキー先輩だね。あのボール、さっそく使ってみようか」
「え、えぇ……もう使うの?」
「うん。正直どこまで通用するか見てみたいんだよね。あの先輩、左打ちだから相性悪いから打たれても良いし、ボールになっても良いから思いっきり投げてほしい」
「わ、分かった。やってみる」
誉が承諾をすると球は定位置へと戻る。
「けっ、作戦会議かよ。やめとけ無駄だ。あいつらは抑えられたかもしれねぇけどよ。俺は別格だ。あんなクソ共と一緒にすんな」
「随分とお喋りなんですねヤンキーパイセン。あなただって負けたら退部ギリギリの点数になるんですよ? 頭足りなそうに見えますけど、さすがにそれは理解できてるんですよね?」
「……てめぇ、その軽口、後悔することになるぞ」
球の言葉に栄司の目つきが鋭いものに変わると、審判のインプレーの宣告とともにピッチャーである誉を威嚇するようにバットを構える。
誉は自信なげな表情をしながら球のサインに従って一球目を放る。しなやかで全身を鞭のように使ったフォームから急に現れるボール。非常に綺麗なスピンのかかったストレートがインコース低めの構えられた球のミットに収まると、バチンと革を弾く音と審判のストライクのコールが同時に響く。
「へえ、あいつ面白れぇじゃねえか。出所の見えにくいフォームに、失速のない質の良いストレート、ポンコツ共が打ち損じるのも納得できる」
「え、頭使えるんですね。ヤンキーなのに」
「あぁ? 当たりめぇだろが。うちはただ野球がうめぇだけでベンチ入りできねんだよ。なめんじゃねぇぞ、クソ一年が」
球は誉のグラブめがけて寸分の狂いなく返球すると、速やかに次のサインを出してミットを構える。誉は頷くと二球目を放る。
ボールは一球目と全く同じコースへ。
「なめんじゃねぇぞっ!!」
それを理解した栄司は叫びながらフルスイングすると、金属バットで硬球を打ったものとは思えない耳をつんざく破裂音が響いた。
「ひぃっ!!」
そんなひどくけたたましい音に誉は思わず耳を塞いでその場に座り込む。
完璧に捉えられ彼方に飛んだ打球だったが、その行方はライトスタンドのポールを大幅に右へと逸れた。特大のファールだった。
静まり返ったグラウンドに栄司の舌打ちが響く。
「クソがっ、ムービングかよ」
「正確にはツーシームですけどね」
「いいのかよ、そんなにペラペラと手の内明かしやがって」
「まあ、あなたに心配されるまでもないですよ。どうせ分かることですし、この情報にそこまで価値はありませんから。それと、宣言しますね。次もインコースに来ますから、是非打ってくださいね」
「あぁ⁉ てめぇ……どういう……」
「ほら来ますよ」
球がそう言うとすでに投球モーションに入っていた誉がボールを放る。宣言通りインコースめがけてストレートと変わらない速度で迫るボールは、栄司の振るバット手前で急激に横へと変化した。誉の決め球であるソードカッターだ。
しかし、それは練習の時ほどの変化はなかった。誉は力んでしまいボールに指が引っかかりすぎたのだ。結果的に誉のそれが栄司のバットを交わすことなく二つは衝突する。
二百キロ近くで地面を這った打球は一塁と二塁の間を守る玲へと襲い掛かる。
彼女はそれを捕球しようとするも、あまりの速度と衝撃にグラブから弾いてしまう。転がったボールを桜花がすぐさま拾い上げるも、栄司はすでに一塁ベースを踏み駆け抜けていた。セカンド強襲のヒット、これがこの試合初のヒットとなった。
「うわっー!! こえぇぇっ!!!! ははははっ!」
今まで体験したことのない速度の打球に玲は恐怖を隠せなかった。それでもそれに立ち向かってグラブでボールを弾いてシングルヒットに止めた彼女のプレーは大きい。もしそのまま後ろに逸らしていたら、間違いなく二塁打以上の長打になっていただろう。
「ははは、ね? 打たれたでしょ? それでもまだ点を取られたわけじゃないからね。切り替えて後続を断つよ」
誉は打たれて嬉しそうに笑っている球に少し困惑しながら頷いた。
栄司の安打後、球たちは何とか後続を断つことができた。ヒットを何度か打たれたが、桜花たちの好守備のお陰で二回の裏まで栄司たちの得点をゼロに抑えていた。
対照的に栄司は一回から三回表までほとんどのアウトを三振で奪っており、得点の糸口は未だ掴めていない。
得点できていないプレッシャーもあり、誉たちは相当神経を削っていた。お互いに点が入らない拮抗したこの状況で、先制点を獲得したチームが主導権を握ることは明確なのだ。だから何としてもゼロに抑えなければならない。一つのミスも許されない。その思考が彼女たちへ重くのしかかる。
そしてこの試合、二度目の山場となる栄司の打席が回ってきた。
左打席に入り、獲物を狩るハンターのように静かな様子でバットを構える栄司に対して、全打席とは対照的にカウントを広く使って何とかスリーボール、ツーストライクのフルカウントまで持ってきた。
どうも上手くボールを捉えることができない栄司は違和感を覚えた。
「おい、てめぇ……俺の思考を読んでやがるな?」
「いやいや、そんなことできる訳ないですよ。そんなことできたら、こと野球においてはとんでもないアドバンテージになりますね」
球は笑って誤魔化すが、どうも栄司は彼女の手のひらで踊らされている気がしてならなかった。
そしてそれは気のせいではない。さすがに思考を読むことはできないが、球は栄司の過去のデータから得意、不得意なコースや球種、どんなバッティングスタイルなのかを分析し、彼の狙いから大幅に外れるよう配球を組み立てている。
栄司からすれば自分の読みをことごとく外され、思考を、心を読まれていると考えるのも無理はない。球は事実、そこまでのことをしているのだ。もちろん一朝一夕でできるものではない。豊富な経験と知識、それから膨大なデータの収集と解析という途方もない時間もかかる。彼女にしかできない芸当であり、唯一無二である。
球は誉に、ソードカッターを外角低めに、最悪ボール球になってフォアボールでも良いから力まないようにね、とサインを出す。
それを理解した誉は深く頷いてから、投球モーションに入ってボールを放る。
「あ……」
球はリリースの瞬間に自分の失敗を理解した。敵味方の全てを計算していた彼女にとって予想外だったのは誉がここで、この大事なタイミングで失投してしまうことだった。球の予測より誉の神経が削られ、集中力が切れてしまったのだ。
すぐに分かった。球が構えた外角低めとは真逆の、全打席で打たれたコースと同様のインコースへとボールが吸い込まれていく。さらに悪いことは重なる。ソードカッターは強烈な横回転が駆動力となり急激な横変化を生むが、誉の投げたそれはすっぽ抜けたような緩い横回転をしている。これでは何の変化も起こらない。
何の変化もない緩いボールが先程と同じコースに投げ込まれてしまった。
もちろんその失投を栄司が逃す訳もなく、完璧にバットの芯でそれを捉えると紬が守るセンターの後方、バックスクリーンへと強烈な弾丸ライナーが轟音と共に打ち込まれる。
文句なし、まごうことなきホームランだ。
「言ったろ? 後悔するって」
栄司はそう呟くとバットを放り投げると、マウンドで頭を抱える誉を横目に軽くダイヤモンドを一周する。
これで一対ゼロ、球たちが必死に防いできた先制点、固めてきた守りを栄司はたった一振りで粉砕した。
均衡が崩れた。
得点の糸口を掴めていない球たちにとって、この一点はあまりに重かった。